花を折る 漢詩と百人一首

 最近の読書のひとつは『中国名詩集 ――美の歳月』(ちくま学芸文庫)であり、またひとつは『謎とき百人一首―和歌から見える日本文化のふしぎ―』(新潮選書)です。両者ともに面白く、それぞれに発見が多い本なのですが、それはそれとして、たまたま両者で同じ日に読んでつながりのある詩を見つけたので、これはと興奮したのです。

 まずは『中国名詩集』のほうで、詩の作者は中唐の杜秋娘(としゅうじょう)だとも、その相手(夫?)の李錡だとも、あるいは作者不明の無名氏だとも言われる、「金縷(きんる)の衣」という詩です。

 君に勧む 惜しむ莫(なか)れ 金縷の衣(い)
 君に勧む 須(すべか)らく惜しむべし 少年の時
 花開いて折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし
 花無きを待って 空しく枝を折る莫れ

p67

 金縷の衣服のような高価なものでも、惜しむようなものではない、本当に惜しむべきは、二度と戻らぬ若い時期だと言い、その表現として、「花開いて折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし」、「花が美しく開いて、手折るによい時がきたなら、そのまま折ってしまいなさい」と言います。

 若いとき、愉しむべきときは逃さず愉しもう、との言葉にはうなづきますし、「君に勧む」「君に勧む」と繰り返す起句承句、ほかにも、惜しむ、折る、花、莫れ、と同じ言葉が繰り返されていて、見ているだけでも音楽的なリズムを感じます。

 ただ、「花開いて折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし」との転句、結句に、いささか不穏なものを感じます。花の美しいときを逃さず楽しもう、とする句だとは思いますが、若年を花の盛りとするならば、折られている枝のほうにも、人の生を重ねてしまうのです。それを折る。若さに命を散らすような、そんなイメージが浮かんでしまいます。

 そんなわけで、全面的に好きな詩だとはならなかったのですが、同じ言葉の繰り返しが面白いなと思いましたし、印象に残った詩ではありました。

 さて、昼間にこの詩を読んだ同日の夜、『謎とき百人一首』で読んだ歌のなかにあったのが次の歌です。

 心あてに折らばや折らん初霜の 置きまどはせる白菊の花

No.1344あたり

 注意深く、折れるのなら折ろうかしら。初雪が降りて、霜か菊か、見分けがたくなっている白菊の花を。

No.1351あたり

 百人一首は子どもの頃学校で暗記させられたので、音のつながりとしては覚えていたのですが、本書を読んで、改めて言葉や意味を知って驚くことが多いのです。この歌もそのひとつでした。そうか、折れるなら折ろうか、と言っていたのかこの歌は。それとともに、昼間に読んだ「金縷の衣」を思い出しました。「折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし」。

 著者はこの歌の、白いものに白いものを重ねて見立てをするその美しさに注目していて、

すでに中国から入ってきていた黄色い菊に、遅れて到来した貴重な白菊。この歌は、菊の故郷でもある中国の漢詩文の見立て表現を利用して、その純白さを讃えているのである。早朝に降りたばかりの真新しい霜と、それに匹敵するほどに純白の菊とを見分けられないというフィクションは何と美しいものだろうか。

No.1359あたり

と言っています。見立ての表現方法に漢詩文の影響が見られるとのことですし、そもそも作者は平安の知識人なので、漢詩に通じていないわけがありません。ですので、見立て表現だけでなく、「折らばや折らん」の表現自体も、ひょっとしたら「金縷の衣」の表現を念頭に置きながらと作った、なんてこともあるのかもしれません。

 wikipediaによれば、「金縷の衣」の一応の作者とされる杜秋娘は、791年から835年を生きたとあります。一方の白菊の花の作者、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は「900年前後に活躍」した(『謎とき百人一首』No.1344あたり)というので、時系列としてはあり得ますが、問題は「金縷の衣」が当時日本に伝わるほど有名であったかどうか、でしょうか。

#漢詩 #杜秋娘 #和歌 #百人一首

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