ビデオコンテ【逃避行】を公開しました
このたび小説「逃避行」のビデオコンテを公開しました。
コンテというのは台本という意味らしいです。絵コンテと言えば絵つきの台本で、ビデオコンテと言えば動画で表現した台本。
台本ですからさらに進めて完成品をめざすもののはずですが、「逃避行」については今のところ予定ありません。細かく正しく動きをつけて色を決めて塗って背景をちゃんとして…と始めたらいつ終わるかわからない(そもそもひとりでちゃんとできるかわからない)やはりプロ集団に任せるべきものなんでしょう。
で、さらなる形をめざさないわけですから「コンテ」と銘打つのはためらいました。今も違和感あります。ただ他にどう呼べばいいか考えても浮かばなかったんですね。
アニメと呼べるほど動きはなめらかじゃないし色も音もないし、漫画と呼べるほど一枚一枚丁寧でもない。
でも既存のものに合わせるとしたら、「ビデオコンテ」と呼ぶのが一番通じそうに思いました。
なので「今後がないのになぜコンテ?」と疑問が浮かびましてもご寛大に、何とぞご容赦ください。
こういった形での表現(ビジュアル化?)のアイデアはこれまで何度か浮かびました。しかしそのつど却下してきました。仮にも小説を書いてますしね。「そりゃあかん」と。
小説って絵、映像、つまりビジュアルがないからいいわけですよね? 読者がそれぞれ好きにイメージできて。
それは文字だけだからこそで、武器がないのが最大の武器。
なのにへたっぴな絵の積み重ねでも1つの形にしたら、その自由さは損なわれるでしょう。避けてきたのはそんなわけです。今もそれほど変わってません。小説の作者はビジュアル化にタッチすべきじゃない。
ただ今回題材にした「逃避行」は電子書籍で出版してから5年です。たいして読まれなかったし今は全然で、もっと読まれるには(内容の質はさて置き)宣伝などのアピールが要るんでしょうが、その財力はない。
で、今回のような方法はどうだろうと。調べてみたらフリーソフトと自分の頑張りでなんとかできそうでした。絵は数十年描いてなかったので自信はなく、「ビジュアル化あかん」もあってなかなか腰は上がりませんでしたが、もうほとんど読まれてない小説なのに「ビジュアル化ダメダメ」と作者がブレーキ踏んでるのも一人相撲のような、「なんのこだわりやねん」と。「できることがあるならやれや」と。
なのでこのビデオコンテは小説のプロモーションです。気になりましたら読んで下さい。収録した短編集には活劇があと2つ入ってます。
KATARA短編集-2-
絵を描くのは十代の頃以来でした。学校にかよったりはなくほぼ独学でした。
描かずにいると描けなくなり、今回なんとか形にできたのはデジタルツールのおかげです。
絵は全部FireAlpacaで描きました。フリーソフトなのに高機能。足向けて寝られません。
動画の編集はGOM Mix M。こちらもフリーでありがたかった。
Amazonで格安の板タブを買ったんですがこれは扱いが難しくて難しくて。いまだに慣れません。どっかに液タブ落ちてねぇかなぁ、ゴロゴロ~ゴロゴロ~(飯尾)
Alpacaには補正機能がついてるのに最初気づかずしばらくウヨウヨの線を描いてました。前半のかなりをあとで直してます。そのくらい何も知らなかったんですね。今でも機能の半分以上使いこなせてないんじゃないかな。必要な機能だけ使いながら覚えてった感じ。
でもまぁ絵を描くのは楽しかったです。1秒も映らない絵に2~3時間なんてざらでしたが(へたっぴだからかかるのよ)それでも「うまく描けた」と思うとちいさなよろこびで、そういう瞬間が2~3時間おきにある。
小説やその下書きのシナリオではありません。まぁまぁのセリフや文章が書けても全体を通した時にどうか、浮かないか、が大事で、あとからたいてい書き直しますし、その時その時のよろこびはほとんどない。
完成時には多少あるけど何度も読み返して粗探しのあとですから、解放感と言う方が近い。
じゃあなんで絵の方を続けなかったの? と言うと、才能がなかったのは勿論ですが、時間がかかるのもありました。
例えばこの「逃避行」なら最初のシナリオは2週間ほどで仕上がりました。小説はもう少しかかって1カ月ちょっとだったと思ます。それに比べて今回のビデオコンテはすでに半年。細かな修正があってまだ半分も完成してません。粗いコンテでさえです。かかり過ぎです。
書きたいことがたくさんあって一作に何カ月も何年もかける余裕はなかったんですね。それでも絵を描くのが好きならそっちをめざしたかもしれませんが、そこまでじゃなかった。
文章と絵の違いであと感じたのは、絵の方が無理が利く点。
疲れてると文章は無理ですが絵はわりと描けちゃいますね。感性感覚のものだからでしょう。
出勤前に2時間、帰宅後に2時間、休みの日には10時間とか行けて、おかげで半年間常時寝不足、体は壊しました。目も腰もお尻も。文章ならせいぜい1日6時間くらいが限界で、それ以上は無理ですから体の不具合は(今のところ)起きたことありません。
改めての気づきは結構ありました。
絵は当然ですがコントロールされたものです。どこまで描くか、どこでやめるかは描き手の自由で、最初はそれらしく見せるのに細かく描き込みましたが、それだと動きを見せるのが難しくなり、次の絵もその次の絵も描き込まなきゃいけない。それでも線画では伝わりにくく、色までつけなきゃいけなかったり。
なので線をどんどん減らしました。いい線と気に入ってもその線がいくらリアルでも、動かした時にまぎらわしかったら消して。
絵を見る側としてもいろいろ描き込まれたらどこを見ていいかわからないですしね。漫画のように好きなだけ見られるわけじゃなく、何秒何コマ(正しくは何フレーム)を作り手のこちらが指定するので、ゆっくり見られない。伝えたい点を強調するにはそれ以外をむしろ描かない、というのが大事で、そういう取捨選択の連続でした。
自分はこれまで物語のことを「都合よく取捨選択し並び替え誇張したもの」と書いてきましたが、その極致でしたね。個人作業でしたし。大勢で作ってれば誰かの意見を取り入れたり主張を取り入れざるを得なかったりするでしょうが、それもない。完全に自分の裁量だけ。コントロールの限りを尽くしたもの。
とどのつまり物語はそういうもの、というのを再認識しました。
あと再認識できたのは、その時々の判断を信じちゃいけないなと。
絵はその時その時ベストのものを描いてるつもりでも、少し経つとヘタクソでどうしようもなく見えます。なぜこれをベストと思えたんだと呆れ、そういうことの繰り返しで、それは着々伸びてる、目が肥えてるというんじゃなく、ただの変化かもしれません。
ともあれその時その時の感性、感覚、価値観、判断基準が頼りない、あてにならない、というのは教訓的で、そういうものなんだろうと思います。今の自分が正しいと思うことも違ってるかもしれない。いやきっと違ってるんだろう。
ちょっと経つと見てられない、という経験はそれこそ絵を描いてた若い頃にも味わいましたが、こんな風には思わなかったですね。歳月ですね。
もっと自信がありました。うぬぼれ屋でね。生意気で周囲にたくさん迷惑をかけた。そんな昔のことをよく思い出して、思えばそれが一番ストレスでしたね。昔のことなんて思い出したくない方なんで。
なんか暗くなっちゃいましたね。
じゃあ最後に明るいネタを。小説はいくつか書いてるのになぜ「逃避行」を? という点ですが、動きのある話だからです。動画にするなら最適と思いました。
これを小説にした頃はとにかく動きで見せようとセリフを極力減らし、先に紹介した短編集の2つもそう。中でもこれは会話が少なく字幕をつける手間がはぶけるんじゃと思いました。短編ですしね。
でも全然楽じゃなかった。雪は降ってるし馬と旅するし後半は人がいっぱいだし。
まぁでもそれもほぼ終えたこと。愚痴れるほどうまくも描けてないでしょうが、自分としては精一杯で、「今の精一杯」ですからちょっと経つとわかりませんが。
全然明るくなってないですね。根暗なんでしょうね。
でも作品はわりと明るい終わり方だと思ってます。すべての公開にはまだかかりますが、楽しんでいただけたら幸いです。
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