何かを一緒にやり始める相手はしっかり見極めたい
今回のネタは色々と動けば動くだけ、常に付きまとうことになり、判断を迫られるであろう話。ときには、そのことが原因で思い悩むことになる場合もあるだろう。また、社会のなかで生きていく以上、人間関係のバリエーション、その質や密度といったものは、個々人の幸福感みたいなもの大きな影響を及ぼす因子になると思うので、その見極めは重要だと思う。
そこで、僕自身、そんな偉そうなことを言えた立場ではないという前提ではあるけど、これまでの経験から感じていることを書いてみたい。
いまの僕は何かをやるとき、「何をやるかより、誰とやるか」っていうことを大事にしたいと思っている。そして、その「誰」の判断基準っていうのを自分自身の心の中に携えている。それが具体的に何なのかというより、そこに至るプロセスについて少し整理してみようと思う。
そもそも僕自身、昔は、衝突することをできるだけ避けるようにしていたため、八方美人的な言動が多かった気がするし、誰とやるか?みたいな動きは意識していなかったと思う。その一方で、偉そうにしている人が好きではないっていうのは、昔から変わっていない気がする。
基本的には楽観的な性格だけど、それでもこれまでの人生の様々な局面において、人間関係のことで思い悩んだことも当然ある。
そして、歳を重ね、様々なキャリアを積み、交友範囲も広がるなかで、出会った人や一緒に何かをした人の数が膨大に積み上がり、今に至り、結果として僕なりに大事にしたいことがある程度言語化できる状態になったという感じ。
それで振り返ってみると、僕自身の指向として、人付き合いの場面において、相手の表情や反応を意識することが多い方だと思う。だからこそ、その変化や違いには敏感で、いつの間にか自分なりのセンサーみたいなものが働くようになった。ふわっとした話で申し訳ないけど。
こういう考えに至ったり、感覚を身につけたりしたプロセスをそれっぽく整理してみるとこんな感じかな。
日常生活において、何かしらの形で人と接したり関係したりすることは無数にあるだろう。そして、そこからは何かしらの印象を受けることになる。他者への関心度合いにより濃淡はあるものの。
そして、それらすべてが自分にとってのサンプルとして、瞬時に頭の中に記憶され、その後も蓄積されたり、忘れてしまったり、潜在的に残っていたりする。それらの経験が、膨大な数値情報を統計処理するみたいな感じで解析されて、超個人的暗黙知となり、それが例えば個々人の価値観みたいな感じで言語化されたり、直感のような感じで作用したりするんだろう。
話がまわりくどくなってしまったけど、要するに、人と接する機会とそこで受けた印象や影響を通じて自分と向き合うことで、おのずと自分自身が何を大切にしたいかが見えてくるんじゃないかなってこと。
つまり、経験を重ねつつ、それをどう受け止めるかで、その中身も変わってくるんだろう。
なので、ときには、自分の感覚的には全く違う方向だけど、一旦のめり込んでみるのもアリだと思う。その結果、やっぱり違うなってことになれば、最初に持っていた感覚の確からしさがより強いものになるので。
僕もそんな経験はある。
そして、最後は自分自身で、自分の心に素直に従おうって割り切れるようになれれば、肩の力が抜けて、自然体でいられるようになるんじゃないかな。
構成がぐちゃぐちゃになってしまい、読みにくかったかもしれませんが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!