120.「カタカムナ文明 ヨロヅハジマリ イツノタマ」
今日はカムヒビキの中で「ヨロヅハジマリ イツノタマ」と言うところの文章からあとについて書いていきたいと思います。
「ヨロズハジマリ イツノタマ」とは、「イツノタマは、万物のハジマリを表はす小さなタマで、それは、アマの最も小さい単位の粒子(マリ)を表象しています。」という意味ですが、同時にそれは、「モノには、徴細に分れる性質(徹分性)がある」という事を表明しているのです。
「アキツ トヨクモ アメノウケ」とは「空に充満する豊かな雲(トヨクモ)のような始元量(アメ)のウケ(字宙の気)から、諸天体が生成される、という事を、イツノタマが表象している」という意味なのです。
「コゴリ コゴリミ ヒジリタマ」とは、「そのアメのウケが、大きなカタマリに凝集して、大字宙の遠心核(ヒ)に成って居る」という意味です。コゴリ ゴリミと繰り返えすのは、その凝集が、一回や二回ではなく長時間かかって繰り返し繰り返し集合して固ってゆく、巨大なスケールを表わしているのです。
この巨大現象が、諸 天体を発生するモトの玄(ヒ)であり、その大量のアメの凝集した巨大なヒ(核)を、彼らはフトヒと言っています。則ち、「多くの太陽を含む、大本の太い陽(ヒ)」という意味であって、我々のいう太陽のことは、彼らは、その「フトヒ」に対し、「アサヒ」とよんでいます。
前述のように、カタカムナ人は、当時既に、宇宙には、多くのアサヒ(恒星)が存在する事を知っていたのです。そのフトヒは、大量のアメの凝集したミ「コゴリミ」であるから、巨大な星の発生源であるが、『潜象 』であって、目には見えない。丁度、目に見えない原子核から、陽子、中性子、その他の粒子が放出されるように、フトヒは、諸天体や、諸天体上の万物を構成する諸元素を生む元のヒ(玄)だと言うのです。というよりも、彼らにとっては、大字宙の核として、フトヒの存在を直観的に把握したことの方が原型で、そこから相似象として、地球上のモロモロの物質の、分子原子以下の微細なモノや、人間の身体や動物の細胞以下の微細現象に至るまで、洞察が及んだというべきでしょう。
今日の我々は、顕微鏡下に認められる原子のスガタを知っていますから、つい、そこからものを考えてしまいがちですが、カタカムナ人の思考は、逆のコースであったと思われます。彼らは、大宇宙の核(フトヒ)の直観から、原子内の原子核の存在を、相似象として観じていたのに違いありません。我々の科学は、彼らの直観の、微視的な方は、原子や原子核等として実証し得ましたが、巨察的なフトヒの方は、まだ観測できてはいません。
「ヒジリタマ」とは、「ヒを知る」という意味ですが、「ヒ」とは前述のように、「大もと」という思念である。どうして「ヒ」が大もとの意味になったのか「ヒ」とはそもそもとは太陽(アサヒ)の陽をさすヒビキであり、ヒトツのヒであり、則ち、すべてのものの「根元、始源」をさす思念です。火山の火や、落雷の火や、山火事などで、自然界に表われた火」を「ヒ」とよんだのは、それらの火のモトに、「アマのヒ」がある、という直感です。「モトになるもの」が「ヒ」であり、従って、太陽(アサヒ)のモトはフトヒであり、フトヒのモトはアマヒである。そして、モトから分れたものの名にも、しばしば「ヒ」がついて居る。太陽のーマワリを、一日二日の日(ヒ)とよび、身体にもヒジ、ヒザ、等の名があり、ヒコやヒメやヒマゴは、ヒ爺さん、ヒ婆さんからわかれて出た子孫の意味です。
ヒビキの語源も、「ヒ」が、二次三次のヒ(ビ)を発生する(キ)、という思念ですから、響の意が出るので、「カムヒビキ」という言葉には、このヒの、最も根源的な、カム、アマのヒビキを伝える意味がこめられています。要するに、「ヒ」は「大もと」の意味であり、すべての「ヒ」は、大もとの「アマヒ」から分けられた相似象である、という直観です。太陽(アサヒ)がヒとよばれるのもフトヒの相似象としてアマの巨大な空洞(アナ)から発生した「ヒ」であると観じたからであり、おそらく太陽の中心核は、アマナであり我々の見て居る太陽の光は、その空洞幅射であろうと思われます。現在の空洞幅射の、高熱の量の壇から生れる火の事を、専門用語でも「ヒ」とよんで居るのは不思議なことです。火山等の自然の火も、ものの燃える火も、又、我々の心の中の火も、すべてモトの、「アマのヒ」を観じたカタカムナ人の直観がとても鋭かったからです。「ヒ」とは、すべてのモノの「核」となって命を支え、さまざまな物質を発生させながら、自身は見えない 『潜象』なのです。例へば原子核から陽子中性子等が生産される事は我々も知っていますが、現代の科学のどんな顕微鏡を用いても、「原子核」という物質を検出する事は出来ない。そこから陽子中性子等が出てくることによって原子核の存在を認定しているまでなのです。そして、そのような「ヒのヒミツを知ること」を、カタカムナ人は〈ヒジリ》と言ったのです。後世「聖」の字をこれに当てたのもなんと不思議なことでしょうか。
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