108.「カタカムナ文明 人類の未来を明るくする人類文化の原点」
今日は、私たちがカタカムナ文化を紹介するのは、なぜなのかと言う事について書いていきたいと思います。
私たちとは相似象学を学ぶ者たちのことです。それがこの種の願望の、情緒的な満足にとどまる程度のものでは決してないから紹介をしたいのです。なぜなら、いかに我々が古代にあこがれても、自然の進化の流れは、もはや再び逆行させる事はできないし、もしも、かりに「古代」に帰ったとしても、それは、人類史のページを一万年間足ぶみさせるだけで、数万年後の人類は、おそらく我々と同じような歴史をくり返し、現代の我々と同じような「文化生活」に陥って、又、古代をあこがれるしかないからです。かって、苦しい欠亡の中にあって人々は夢中で救世主を渇望しましたが、今や一応満ち足りた文化生活の世になっても人々は、より深刻に、しかし、今をどのように求めてよいかもわからぬままに、無意識に目を虚空に古代に注いでいます。古代という言薬で、人々があこがれているものは、一体何なのか?この真意がわからない限り我々人類は、今までのような迷妄の歴史の循環から脱して、マトモな、成熟の過程に真に「進化」することは不可能なことなのです。
カタカムナのサトリには、我々が我々の数万年間の歴史から真に聡明に学んで、人類の将来に明るい夢を托し得るに足る人類の文化の原点ともいうべきスガタが、記されているのです。どうか縁あって、この相似象学に出会った方々は、一人一人が自分のココロに問うてこの古い上古代の言葉のヒビキをかみしめて読んでみて頂きたい。ただし、同じ言葉一つでも、例えば、カミとかアマとかいう言葉にしても、それが、全くムクの中からその言葉がつくり出されて居た時代と、さんざんアカやヨゴレの附着したあげくの使い古しの言葉として受けとられて居る現代とでは、その言葉の「初心」を素直に感じとる事は、非常に難しいことです。
しかし、人間の心は、「そう成らう」と思えば、則座に「そう 成れる」という、新しい力が、刻々に与えられています。
国家間の闘争や、公害問題等におびやかされ、人類の滅亡も近いという、悲観論が叫ばれる現代の風潮の中にあって、この上古代人の、イキイキと明るい感覚をよび覚すことは、いかなる妙薬にも増して起生回生の新しい力を、もたらす事に成るに違いありません。
これから述べる、彼らの「日本最古のウタ」の数々を読んでいただければよくわかる事なのですが、カタカムナの人々の間では、このような簡単な表現で、ズバリと、ひとこと言へば通じあえたものらしいと思います。しかし、それだけでは、今の人にわかりようがない。今日では日本人も、科学的にしかものが考えられないように教育されています。現代人の先見にある、科学思想・宗教・神秘思想・哲学等の考へ方との違いを整理する為には、科学用語や宗教哲学の概念用語も使わず解説することは、至難の技なのです。その為に、「難しい」という印象を与えてしまう事にもなっています。
しかし、思えば、これは、近々の百年間の現象にすぎません。私たちは、それ以前にカタカムナの伝統という数万年のキャリアをもつ民族です。一応の手がかりとして説明は附しておきますけれども、できるだけ拙い解説にわづらはされる事なく彼らの、単純・明朗・閣達な言葉のヒビキを、どうか直接めいめいのココロの波動の共振感応を以て、聴きとって頂きたいと思います。日本人なら、それが可能な筈です。そうすれば、私達が、消極的すぎると非難される程に慎重に、このカタカムナの文献を扱う気持ちも、又、その意味の重大性も納得されると思われます。