116.「大学と小学について」

 今日は大学と小学にと言うことついて書いていきたいと思います。
 今までにも、科学者の中には、自身の精神のよりどころを孔子や釈迦やキリスト教に置き意識無意識にそれを精神の支えとして、専門の研究に従事するというような結びつき方はありました。
 同じく顕徽鏡をのぞいて居ても、そこから重大なモノを見出す人もあれば、見過してしまう人もいます。同一人でも、以前は見落して居たものを精神的に成長した後年たまたま発見し念の為に以前の写真と比べてみたらちゃんとうつって居ながら気付かなかった事に我ながら驚くというような事もあります。
 どのような生き方をするにせよ、何の専門に携わるにせよ、人は、日夜、自分自身の「ココロ」とか「アタマ」「イノチ」等とよばれるものの、支配下にあります。言うまでもない事ですが、ココロやアタマやイノチは、それを専門に研究する人々たとえば宗教家や哲学者や生物学者だけが取り組む問題では決してありません。意識しようがしまいが、誰しもその時その時の自分のココロやアタマやイノチの条件に左右されて居るので、それ故に同じような与件に対してもさまざまな違った結果が出てくるのです。
 孔子はつとに「大学」と「小学」を分け「小学」とは、今で言えば各々の「専門の学」をさし、それに対して、いやしくも人間である以上は誰でもわきまえなければならない、生存の基本態度とはどう言うものであるか?という、いわば、ココロとアタマやイノチの「根本問題を研究する学」を、「大学」としたのです。
 しかるにそのような哲学的な意味をもつ「大学」という言葉を西洋の歴史の中に発生し「綜合」の意味をもつ「ユニヴェルシテ」の翻訳に当てはめてしまった明治時代の感覚に、アヤマリがあったのです。従って「大学」という言葉の本義に基けば、「大学」とは、文科理科等の区別以前のものであり、どれ程の専門の大家の学であっても単なる「小学」なのです。科学が、ココロやイノチなどと扱えあれぬものというのであれば、単なる「小学」であるから科学者の中でも「大学」を求める者は、専門の学とは別に個人的にココロやアタマやイノチの問題にとり組むしかない事になります。
 学間が、文科系統、理科系統に細分化されて、専門的に発達したのは、既成の事実ですが、その為に、ココロやアタマやイノチを扱う「大学」を、オロソカにしてしまった事は、近代人の最も大きなアヤマチでした。ココロやアタマやイノチの問題は、単なる哲学や文学や心理学や理学等の専門分野の扱いに、分割していたものをカタカムナ人が「ズバリ」と直感で把握し、有史以来の哲人達が、苦辛に苦辛を重ねたあげく体格的な用語を以て、個人的見解として文学的哲学的に述べて居た事を、カタカムナ人は、やさしい和語で極めて端的に、卒直に、しかも現代の科学用語以上の適確さを以て表現して居たのです。
 正直に言って現代の我々は、理科系統の諸科学に於ても、文学系の諸部門においても、ココロやアタマやイノチのような「大学」の部門を、まだ扱いきれないのです。思えば既に孔子の時代に、孔子が「大学」と「小学」を分けて「大学」の意味をあれ程強調しなければならなかったという事は、我々に、改めて大きな反省の念を起させます。
 そもそも「小学」と言われる専門が、いろいろに分化して研究を進めるようになった、そのもとと言えば「大学」で目指して居る人間の「本性」「本質」という問題をよりよくわかり人類の文化度・幸福度を高めたい為に他ならなかった。そのそもそもの気持ちが失われ個々の専門が割拠するようになり、孔子がイニシへに学び「古代」を想起してそこに帰依すべき民族の「原点」を観じ生涯を賭けて注意を喚起した仁や徳などの「大学」の道までもが「哲学」という専門の学の中に、しかも「東洋哲学」という一部門に閉じこめられてしまったのです。そのような有様になったのも、孔子の「仁」や「徳」というような表現は、個人の体格的なもので一般理論化が出来なかった為に、後代人の誤解にも原因がありますが、孔子自身の目ざした「カン」はあくまでも正しかったのです。そして、その孔子のカンのようなマトモさは、いわば人間の「平衡感覚」のようなもので、どちらにも一寸傾いてもセ
ツナに異和感が起こる、それは生物的なカンなのです。そのようなカンは、
いつの世も、いかなる民族に於ても、無意識に人のココロの支えとなって
生きつづけて居るものであるからこそ、人間の真理は古今東西変らない
ものとされ得たのです。
 縁あって、このカタカムナの「ヒビキ」に触れた人達は、従来の固定観念にしばられずに、少なくとも最近の科学が「奇妙さ量」を認めた態度になって彼らの世界に接してみて頂きたい。彼らの表現は、単純のようですが、非常に集積が多いから、現代科学の知識を以てそれをみると、恰かも彼らが、遠い将来を鋭く見透して「予見」して居たかの如くに思われ、現代人が、最先端をゆくつもりの、例えば半導体や原子核科学の物理に於いても、又、反物質の発見についても、既に「直観ではこうだ」という解答が、ズバリと示されて居たことに驚嘆させられるのです。この事を真に驚き、この「オドロキ」を、「真剣」に吟味するのでなければ、今の時代に、大昔の、神話を、科学がとりあげる意味は無いでしょう。私達が「カタカムナ」人と指摘する上古代人を、所謂一般常識の「古代人」というイメージによって、類人猿的な姿で想像し善良ではあるが知性の低い無力な未開野蛮な人のように、混同してはならないのです。
 大昔の人が皆、我々よりもバカで何も知らなかったように、思い上がる現代人があるのはトンデモない事です。又、ニューギニヤやアフリカ等の未開の山野を調べみても、カタカムナ人の生態はわからないでしょう。「今の世に、孔子や釈迦だの、あまつさへカタカムナ人などとは、時代錯誤も甚しい」というような一般常識を以ていては、真の「人類的な反省」は不可能のです。カタカムナの直観物理の内容と現代科学の見解とでは、一致するものもありますが、全く常識に反する事も多いのです。現代科学の理論の中で、どうしてもスジが通らぬところは、直観物理にてらしてみると新しい示唆が与えられ、現代科学がまだわかって居ない領域については、直観物理の内容を参考にして考えれば道が開けるというわけです。要するに、部分的にカタカムナの直観物理の内容を現代科学の知識で述べればこういう事であると、説明することは出来ますが、残念ながら、まだ、我々は、現代科学の知識を以て、直観物理の内容を、全面的に証明するには至らないという事です。
 しかし、我々は直観物理の「マトモ」さを認め得るだけの「科学知識」はもって居るから、それによって、現代科学を「反省」する事は出来るのです。従って現代科学を信奉する人々にとっては、カタカムナの直観物理は激しく抵抗ありますが、現代科学に疑念をもつ人々にとっては心が動き大いに魅力がある筈のものです。
 要するに日本人が、西洋人から見て「奇妙さ量」が多いとうつるのは、日本文化の起源には、現代科学では未解明の潜象の存在を観破したカタカムナのサトリ、高度の哲科学が基礎にあったからでした。そして日本文化は、現代まで「日本語」を通してその伝統を無意識の裡に受けついで居たという事が、植崎皐月のカタカムナ文献の解読によって、ハッキリと認識されるに至ったのです。


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