96~100 全公開まとめ記事 「カタカムナ人の直感 好き心~空気 太陽 地球より根源の力 電気」

96.「カタカムナ人の直観 好き心と理屈 ものさしは心の密度」
97.「カタカムナ文明の位置 現代科学や神秘思想」
98.「まともな直感によって 人間の存在を正当に認識する」
99.「人間の直感を健全に保ちつつ行う 理性の訓練」
100.「空気 太陽 地球より根源の力 電気」


96.「カタカムナ人の直観 好き心と理屈 ものさしは心の密度」


 カタカムナ現象と潜象のなかで、『カタチに見えないものを探究する』といふ点で、私達の相似象学も、一般の形而上学や神秘思想と間違われる危険がありますが、ほんとうに存在するものを、 『アルガママに感受する』のが直観物理の姿勢であって、ありもしないものを観念の想像でつくり上げたり、あるものをマチガッテ受けとり誤解することではありません。
 
人間の最も素朴な好奇心は、昔も今も、「これは何かしら?」「本当の事が知りたい!」といふ衝動で起きるのです。
たとへば、現代の子供なら、小学生でも、兎の胃腸の端動をフィルムで見せられています。ウネウネとくねって居るその不思識な動きをはじめてみたとき、「これは何だろう?」とおどろき、次に、「どうして動くのだろう?」といぶかる気持は一応誰でも持ちますが、その次には、「どういふわけで動くのか?」「この動く力のもとは、どこからくるのか?」「このように動いて、どうなってゆくのか?」といふ風に進む場合と、「一体これは何の為に動いて居るのか?」「どういふシステムで、何を目的で動くのか?」といふ風に進む場合とに大別されます。
 
そして、「何の為に?」と考へ出すと、それをわかる為には、その部分を手にとって、もっと詳しく分解分析するしかないと思い、目の前の物をいぢくりまわすことになります。(人間の好奇心が、このように前者と後者の二方向に岐れてゆく時点に、人間の自我、欲望、ご利益根性、我執等と称ばれるもの、の、発生の原型が観られる。もとより人間の心のもとであるアマのココロに人間的な意志や行為のもとがある筈はなく、ただマリやコロの粒子性の傾向があるだけですが、一たび、人間の次元になったとき、この粒子性(マトマリ性)の傾向が、人間的な偏向に加圧されると、ぬき難い我執妄執といったものに凝結し、極端な 『反』に偏り、難行苦行、さては自殺にまで至ることになる。
これは人間精神の大きな問題なのですが、今はこれ以上深入りすることは主題をそれるので、ここでは、「どうして?」の発想は直観を主とし、「何の為に?」の発想は自然科学へすすむことを指摘することに留めます。
 
人間の好奇心の「どうして?」と「何の為に?」といふ二つの方向は、わかれたりついたりして進展してゆくのですが、我々日本人は、この「何の為に」の発想には弱く、従って科学的ではなかった。そこで明治以来大いに反省させられ、目的意識の養成が強調され、今日では日本人もかなり習熟しましたが、従来の日本人の特性とされた直観性能は急速に減衰を起こしました。
 ときに、直観性能の衰へた人間が、ものを考へ出すと、それは、欲望のままに際限無くはびこるもので、欲望自身が自己満足するか、欲望を起す原動力自体が消失して、そのような気持がおこらなくなるまで、意識でいかに止めようとしても、止まるところをしらない妄執と云はれる所以です。
 
そうした果てしない回転に、「神」や「仏」をもち出して、ストップをかけるのが宗教です。神秘思想には物理の裏付けがなくとも差支えない。ところが物理的な納得がなければ飛びこめのタイプの人にとっては、全く救いが無いことになります。カタカムナのサトリは、「在るものをアルがママに観ずる」直観が基になって、体験的に獲得したものですから、人間の直感に観じられるものは関心の他である。人間の純粋な好奇心の発露「何だろう?どうして?」といふ方向は、スナホな直感に従うものですから、直観にあづからぬものへ逸脱することは少ないのです。
そうした直観による見解は、おのづから物理にかない、その正当さは、有効な知恵となって活用され、人々の幸福度を高めることによって証明されることになります。しかしそのような正当さに欠けた思ひつきは、欠けただけの弊害を伴った思想や行為に発展するわけです。


97.「カタカムナ文明の位置 現代科学や神秘思想」


今日は、自然科学や神秘思想などが出来上がってきたその過程の中で、カタカムナ文明の位置について、考え方についての書いていきたいと思います。
 
上古代人の直観性能を失った後代人は、目にうつる現象から逆に追究して、神秘思想や自然科学をつくりだしました。
しかしそれらも、その追究の態度が純粋であればあるだけ、錯覚は正されて、カタカムナ人、上古代人の直観内容の「アマの相似象」に近づいていくのです。
しかし、直観が大切だと言って、何もかも直観でわかると言う事ではありません。
『スベテのものの始元をアマ』と観じ、それは、 『マワリテメグル』という『本来性』をもつと観じた、それがカタカムナの上古代人の直観でした。彼らは、天然、自然・人間界に通じる物理や、宇宙創生の相、地球上の生命発生の相などについては、驚くべき直観を述べ、人々の生活技法についても、様々の知恵を示して居ますが、人間の直感の限外のもの(神秘思想等)にはふれて居ません。上古代人の直観にないことを、現代人が思考でわかりうると思うのは少し傲慢ではないでしょうか。
なぜなら、……現代人の思考にも正しい事もあるかもしれませんが、我々が正しいと思っても、我々の思考能力はゆがめられて居ます。我々は、ヒズミを以て判断する思考のクセがついていますから、そのユガメられたものを基準にしてはいけないのです。
少くとも我々より直観性能の勝れた上古代人の直観を基礎とするしかありません。
例えば、正反対称や自転公転マワリテメグルの直観は、現代理学からみても正しく、たしかに、宇宙の森羅万象はその相似象であります。「彼らの直観内容を、現代の思考で言えばこうだ」という事は出来ますが、現代人が、直観の鍛練をせずに、思考だけで判断したり、カタカムナ人の直観を修正したり、あまつさへ、彼らの直観に無いことをつけ加える事は、厳に誠しむべきです。
したがって、現代物理で云わぬことでも、上古代人の直観で述べて居る事は、例えば、 『始元量』などという考えは、現代物理にはありませんが、それは現代理学の方がアヤマリだと思うことにたっています。
なぜなら、目にみえぬ存在を直感でキャッチし、その性質や物理を悟ったカタカムナ人の直観性能のマトモさに比べれば、人間の目を、顕微鏡や望遠鏡で少々延長し、ナマの目よりも、少し小さいものや少し遠くのものが見えるようになった程度の我々の科学を、いい気になって、自慢しては居られないことになるからです。
知り得たことを、知とし、知らないことは知らない、というところから私達は出発するしかない。孔子も「之を知るを之を知るとなし、知らざるを知らざるとなす、これ知なり」と述べて居ます。しかるに、直観の限外に欲望の満足を求めて、「アマのもとは?」などと云い出すのは、「ニワトリと卵」の空まわり以上のヤボなのです。
 
このように人々は、直観の限界外にやれるのが思考だと錯覚して居ます。想像やイマジネーションの類はどこまで羽ばたいても自由で、文学や芸術の世界ではそれもありうることですが、本来人間の思考は、直感に従うのが使命であり、直観は直感に基く勘考である。
又、真の創作や発見は、人間智だけで生れるものでは決して無い。カタカムナの上古代人は、それを 『アマウツシ』の故と観じて居ました。
アマの始元量は、変化が限定されず多岐にわたり得るものであるから、それが人間の直観、思考の能力と重合したとき、真の 『創造』が発生するということをカタカムナ人は信じていました。


98.「まともな直感によって 人間の存在を正当に認識する」


 今日は、我々はまず我々の存在を正当にまともに認識することから始まるべきであるということについて書いていきたいと思います。
 
カタカムナ人のようなマトモな直観物理によるなら、生、死、神、仏等の領域の問題も解明できるものを、何を好んで、直観の限外をうろつきき、直観にないものを、欲求しなければならぬ必然性があるのでしょうか?孔子が、「いまだに生を知らず、いづくんぞ死を知らん」と言ったのは、人間一精神のたどるべきコースの、逸脱を戒めたものであったと思われます。
 
ところが、気の弱い人間が、心に多くの苦しみや悩みをもって救いを求めるとき、「いまだ死を知らず」と突き放されるよりも、それが真理ではあってもそれよりも、アマの心に相似した優しさで、アマのコトワリにかなった生き方を諭される方になびくのは当然です。まして自分の心情の好みにかなった神仏に託して、醇々と説かれるところに大きな魅力があり、そこに「宗教の意義」がある。真の宗教とは、アマの相似象にかなうもので、そこに「邪教との区別」があるのです。
論語、易占、聖書、多くの教典等々の中には、おのづから高度なアマの相似象に基づくサトリを、親切な言葉の裡にこめて、人々の幼稚な無知さや、低俗な御利益根性を、誘導する巧妙な配慮があって、感心させられることがあります。こう観てくれば、「論語でなければ」とか、「この仏にすがるしかない」等と、めいめいの性格にかなった方向を固守するのは、その信ずる精神の強固さが、教いへのエネルギーになるに違いないけれど、大人気ないことなのです。ところで、すでに既製の教えによって救はれ、安心立命を得た人々には何もいうことはないのですが、さて、私達が現代の若い人や、自分の子らに、人生のパターンとして示すものとしては、過去の多く附着した既存の宗教や哲学思想は、もはや試験ずみであり、あまりにもムダな飾りや手垢がつきすぎて居る。
しかもそれは、人間のサトリの道としては 『反』に傾き、とにかく人間の自然な生存をゆがめる難行苦行に最高価値をもたせ、成功の率も低いのです。サトリの教へにも正反あるのが当然ですが、素直にアマの本性に基づいて、正当に鍛練されるなら、それは決して「難行苦行」ではなく、又、食の楽しみ、生の喜びを遮断しなければ獲得できぬような、反自然性なものでもなく、それは実に明るい、すこやかな術てによって、楽しみながらやれるものなのです。
弊害をおそれ、食欲を犠牲にし、性欲を禁忌しなければならぬと思うのは、人間の知性が低く、生物の本性、即ち、アマの本来性を知らないからです。(今まで、そのような教へがなかったからです。)この意味で、人類の過去の精神的遺産を、経験的に批判して包含し、しかもそれぞれの良さは、正当に生かして活用しうる「相似象学」というものが、いかに能率のよい勉強法であるかは明らかです。
 
アタマに欲望を起させてから、そのアタマの命ずるままに追究しても、マトモな解決は得られるわけがありません。それを「人間性だ」と抗弁するなら、要するにその人間性が、人類の滅亡の方向にくみする姿であり、それ自体が末期症状だ、というしかありません。「乗りかかった舟だから、あくまでアタマで追究する」と言うなら、その追究の矛先は、自分自身のアタマをそのようにかりたてて居るからです。執着の根元にこそ、目をむけるべきなのです。相似象学に於ては、人間の心に、そもそもそのような頭的な欲望や執着、又厭世的な弱気や疑惑等の起こる原因を、アマのココロの衰弱=電気の欠亡状態として居ます。
従って、人間の子が、物心つき、アタマに慾や迷ひの根のはびこるにまかせてから、今度は意志的に、その根を絶たせようとするような、過去の難行苦行式の修養方法とは、全く異ったアプローチによって、即ち、アマのココロ(アマウツシ)の補給による、心身の受け入れ態勢の好調を先決条件とする、明快な解決法の悟りのすべを見出したことになるのです。


99.「人間の直感を健全に保ちつつ行う 理性の訓練」


今日は、人間の直観知性をできるだけ健全に保ちながら、人間の理性を正しく調錬することについて書いていきたいと思います。
 
この2つは相反する矛盾行為ではなく、両立してこそ真の人間性を発揮しうるのですが、今日まで、そのような教育法は存在しませんでした。
上古代人と言っても世界のすべての上古代人が、現代の我々より優秀だったわけではありません。私達は、カタカムナの文献によって、はじめて、現代の我々の経験では矛盾としか考へられないことが、立派に成り立つ世界を知ったのです。
複雑多岐な橿を見せて居る万物万象から、共通する象を「抽象」して「球」であることを把握した、カタカムナ人の直観の基本態度を知ったとき、私達は真に驚愕しました。
 
しかし、それにもまして、現象と潜象の重合、則ち 『反』の世界の問題に気がついたとき、それは衝撃的な感激でした。カタカムナ上古代人が、目に見える現象の状態には、目に見えぬアマの潜象の潜態が秘められて居る、ということを、神秘観からではなく、直観として悟り、その物理を何とかして伝えようとして居るのだ!と、わかったときの感動は大きなものでした。
彼らのナゾの図象文字を、そのような意味に読みとるまで、楢崎阜月の長年にわたるしんくは、真に筆舌につくせないものでした。そして、今では私達も、カタカムナのウタの苦戦にも慣れ、彼らの世界になじみ、彼らの感じた同じアマのココロを覚えるようになり、そして、楢崎先生|が、そもそも石油、鉄の仕事中から大地電気(環境の電気現象)に着眼し、静電気、植物波、人体波、生命の発生、元素の転換、反電磁揚等々と、つねにその関心は大地(アマを離れず、遂に、多年最高レベルの研究家として非凡な業績をあげて来られました。その仕事をも一切なげうって、全才能を、カタカムナの文化の一細訳の仕事に打ち込み、自ら「学者」にならうともせず、何らの対価も求めず、ただならぬ熱情を以て、甘んじて、カゲの奉仕の生涯に徹しようとせずに居られなくなったその所以が、心から領かれるまでになったのです。
カタカムナはそれほどに人の考えをあたらめさせるだけの力を持っていたのです。

100.「空気 太陽 地球より根源の力 電気」


 今日は、宇野多美恵先生が相似象であるカタカムナをどのような方向に育てていきたかったについて書いていきたいと思います。
 
今時、空気中に酸素や窒素のある事を知らぬ者はいません。ところが、空気や太陽よりもっと根元的に、我々の生命の保持に関与し、地球太陽をも包含して全字宙をカバーして作用して居る「電気の現象」について殆んどが無知で、そのおかげで生きて居ながら平気で無視し、「電気のことは、電気の専門家にやって貰えばいい」位に思って居ます。
しかし我々は、将来我々の子孫の人々から、「昔の人は、大地電気のことも知らず、セックスを、子供を生む為のものとしか考えて居なかった」と笑われる事になるでしょう。
今、我々が「ここは空気が良い」とか「スモッグだ」とか言うように、いまに「ここはイヤシロチだから気分がよい」とか「ここはケガレチだから農作物の出来が悪い」とか、「今日は疲れたからアマウツシをしておくれ」などという、日常会話が交されるようになる事でしょう。すでに、私達会員の間では既にそれは常識となり、それによって健康を増進して恩恵をうけて居るのです。医療といふものの考へ方にしても、すべて学問の在り方にしても…つまり、有史以来の人類の文化といふものに対して、ココロある人々から、根本的な反省の要が叫ばれ、ゆきづまりが論ぜられて久しいのですが、………思えば、孔子、老子、釈迦、キリスト、ソクラテス等々、東西の哲人、聖者、宗教家と言われた人々は、既にその当時から、「これではイケナイ」という直観的な警告を訴えて、世相の流れに「抗」していたのでした。
しかし、それなら、それを、どのように反省し、どう打解したらよいかという、具体的な、ハッキリとした明案はないままに、次第に人類は、大きな危険に追ひつめられて来ました。このまま、人類も、かって地球上に興亡した生物たちと同じく、間もなく滅びる運命にまかせるしかないのか?
このような問題に関心ある人々にとって、この、カタカムナ文献のもつ意味が、いかにに大きなものであるかという事を、正しくわかっていただくことができたらと思います。
私達は、カタカムナ人の直観内容を述べるのが本冒であるから、できるだけ不要な摩擦や、又読者の混迷を避ける意味で、何よりもカタカムナ人の純粋な直観の感じて、かざらずに伝えたいと心がけて居ますが、説明に入るとどうしても現代人の感覚を導入することになり、本筋のぼやけるのをおそれています。
「現代科学がみとめて居ないから」という理由で背をむける人は致し方もないのですが、私達は、諸科学や宗教、芸術等に携わる人々とも、感情的な反援を避け、本質的な討論の基盤をつくるもしたいと思っています。現在の学問は文科理科等の各専門に分化していますが、扱ら対象物(字宙や自然や人間など)の方は分化して存在して居るわけではありません。分化以前の基本的な共通の教養の源として、又、現代の文化へと根本的な反省の根拠として、相似象学を虚心に活用していただきたいと思います。
「一体この会誌は、どういう読者を対象にして居るつもりなのか?」ときかれることがあります。聞く人の気持ちとしては、女性の本としては難しすぎるのではないかという事らしいのです。勉強したい人は男も女もなく、必要な本を読むことが、当たり前な国からみると、日本のように、女性むけの雑誌のみならずテレビ週間誌等々のさかんな有様は、女を尊重するのではなく、甘えさせて、バカにして、もうけられて居るので、このような風潮は、やはり、日本文化の大きな歪み現象の一つだと思われます。少なくともこのような現状に疑問をもつ人々に、この会誌を読んでいただきたい。
このような時代にあっては、この歪んだ傾向を支える(アマ)の力が伴わない限り、その民族は崩壊する。いや、そのような歪んだ世相には、「必ず抗する力」が支えとなってかげで働いて居るものである。私達は女として、その反のアマの力を自認し、こうした女性に迎えられる本として読まれることを念願しているのです。
この意味で、女性の本であって、当然男性の方々も、どうぞ読んで御批判をいただきたいのです。なお、私達は女性の勉強会を「相似象学会」に発展的に改称いたしました。会誌には、毎号、今までかつて世間であらわれたことのないユニークな内容を掲載し、ココロある読者の期待に答えることを念願しています。何ももの言わず、黙って自分の世界を築きあげて居られる芸術の領域に、深く心をひかれた時期もありました。
今もなお、拙い言葉をつらねることのヤボさは、イヤといふほどかみしめて居ます。個人的な好みは好みとしてありながらも、何か大きな力に推進される思ひで筆をとって居ます。至らぬ点は御批判を仰ぎ、相似象学を、日本民族の真の知恵に育ててゆきたい。
それが私のせつなる願いなのです。
 
宇野多美恵先生が編集の後記として、残された言葉をそのままに書かせていただきました。





 


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