夏の生き物の観察・考察 −ミミズ−
セミの観察・考察を書いた際も先に断ったが、これは片桐和也の独断と偏見と妄想による観察と考察であり、これをみんなのお父さんお母さんに話せば、都市伝説の黄色い救急車がお家に来て連れて行かれてしまうだろう。
俺はミミズが嫌いである。気持ち悪いとかではなく、アホだからだ。
あいつらは物言わぬニョロニョロで、せいぜい小便をかけてしまうとチ○コが腫れると親父に脅された程度の存在である。やかましくもなんともないミミズだが、マジでアホなのである。
あいつらは愚かだ。通り雨が降ったり、夜間涼しくなると、あいつらはアスファルトや砂利に出てくる。その結果、湿地に戻れなくなり、道端で干からびた末にアリに食われるのだ。
地上に出てくる働きアリというのは、全員がババアのアリらしい。ババアアリは海千山千、老獪なので、ミミズがアホなことをよく知っている。陽光に焼かれながら這っているミミズを見てほくそ笑んでいるに違いない。そんなミミズのやってることだけ切り取ってみると、無謀な運転をしてガードレールの花束になる暴走族のガキと同じである。
俺は毎年毎年、夏になると庭の砂利で苦しそうに這いつくばっているミミズを見て問いかける。お前は何をもってイケると踏んだんだ? と。
あいつらは毎年のように先人が無謀な挑戦をして命を落としているにもかかわらず、目測を誤る者が後を絶たない。あいつらの見通しの甘さにはほとほと呆れる。
ミミズに事業計画書を書かせようものなら、結局目的がわからず、顧客をどこに絞るかもわからんようなトンチンカンなものを書くだろう。そのくらいあいつらはひどい。確実に融資は受けられない。とにかくあいつらは無謀なのだ。
朝方になると植木鉢や家の基礎に這いつくばってるナメクジが、ミミズと同じように日光で干からびてしまうのにも関わらず、ほとんど干からびているのを見ないことからしても、ミミズのアホさは一目瞭然である。ナメクジというのは本格的に太陽が牙をむく以前に湿地や植木鉢の下に帰る。ナメクジはミミズよりトロい。それなのに帰れるのは、帰れる場所でしか遊ばないからに他ならない。ナメクジは自分の機動性、体質をしっかり把握しており、その範囲で手堅く生きている。俺は事業計画書を書かせるとしたらナメクジに書かせる。
ビジネスパートナーとして安泰なのはナメクジだろう。ただ、俺はナメクジと就業後飲みに行きたいとは思わない。ナメクジは頭が固く、話しててもつまらない。俺がボケてもツッコまずに、マジのトーンで間違いを訂正してくるので、俺がただ間違っただけのアホの子みたいになる。俺はそういうやつは嫌だ。あれは本当に嫌いだ。本っ当に嫌いだ。ナメクジといるとマジで疲れる。
それにひきかえ、ミミズと飲むのは楽しい。あいつは世間から見れば愚かだが、変な魅力がある。たぶん意外と女にモテるのもミミズの方なのではないかと思う。
浴びるほど酒を飲んでは、約束を反故にし、三日ぶりに家に帰って便所で吐いている、それなのにミミズはモテるだろう。乱暴なくせに繊細で、無頼漢かと思えば、女の乳に顔を埋めて、僕は世の中がこわい、とかなんとか言う。女はそんなミミズを放っておけないのである。ミミズはなんだかんだ好き勝手やって、自分で自分をダメにしてくたばって、それでもあんまり人から憎まれることはないような不思議な人間らしさがある。意外と土壌を豊かにしたり、人間の道具でいうところの鋤のような役割をちゃんとしているらしい所も評価されて、むしろ感謝されていることもある。
きっとあの干からびて死んでいるミミズ一匹一匹にもドラマがあり、アホはアホでもアホなりの苦悩というのがあり、それはあいつらがアホではあるが間抜けではないという証拠であって、そして、間抜けではないアホほど厭世的になりやすいものだ。アホなくせに難しい本など読むものだから、従来の価値観、旧態依然とした道徳、世間という得体の知れないなにか、そんなものに息苦しさを感じてしまう。だからミミズは乾燥地帯に出ていくのかもしれない。
そんなミミズの行きつけのスナックのチーママやら、ホステスらは、死んだミミズを偲んでいる。さんざん迷惑をかけられた妻も憎しみなどはなく強く生き、二人の子供を育てている。二号さん、妾なんてのも同じでミミズに憎しみはなく、本妻と同じようにシングルマザーとして強く生きていく。
俺も俺とて、アホだから嫌いなやつだったのに、いなくなると淋しい。なにも死ぬことないじゃねえかよ、と思う。俺は男なので涙こそ流さないが、嫌いなやつがいなくなってくれて嬉しいという感情は全くわかないのである。兎にも角にも、これが干からびて死んでるミミズの真相だ。
俺個人としては、やはり夜中あたり乾燥地帯に出てきて蠢き、いずれは悶死するであろうミミズを見るほうが辛い。モルヒネを投与せざるをえないような重病患者を見てるなら、死体を見てたほうがまだ心安らかというものである。
むしろ、死んで干からび、アリに群がられている姿にまでいくと、淋しさもあるのだが、自然的な無常観を感じてある種美しくさえ見える。俺が十九、二十歳くらいのころは、なぜかそれが今よりとてつとなく魅力的なものに見えて、炎天下の道端で一時間くらい眺めてたことがままある。あの時期の俺は、もしかしたら不審者案件として地元市役所のメルマガに載ったかもしれない。