ウィルトンズサーガ【厳然たる事実に立ち向かえ】第3作目『深夜の慟哭』第39話
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「あ、ありがとうございます、エレクトナ様」
おずおずとオリリエは答えた。手を握り返したりはしない。それはあまりにも畏れ多い事と思えたからだ。
「貴女の兄が、盟友のアントニー様と共に地下世界へ行ったのは、アーシェル様から聞いたわね?」
「はい……。兄が無事でいるのを祈っています。私は……本当は私にも何かできればいいのにと」
オリリエはうつむいた。令嬢に重ねられた手からも目を逸らし、自分の膝を見る。
「貴女の兄が地下世界へ行ってしまい、私はとても残念に思っているわ。あの方に、もちろんアントニー様にも、私たちを助けていただきたかったの」
「ですがご領主のセンド様は」
ここでそっと顔を上げる。
「これは私の一存よ。いえ私だけでなく、アーシェル様も同じ考えなの」
「どういうことなのですか?」
どういうことなのか、薄々はオリリエにも察せられた。訊(き)くのは怖い。しかし訊かないわけにはいかなかった。
「お祖母様は、もう隠居なさってもよい頃合いだわ」
オリリエは黙った。その言葉は、エレクトナが兄のウィルトンやアントニーに告げたのと同じ言葉である。オリリエはまだそれを知らない。
単に年寄りに引退を勧(すす)めるだけならどうという事はない。それだけで済むとは思えない、不吉な匂いをオリリエは感じ取った。
兄と同じ黒髪に黒い瞳の妹は、ここで何と答えるべきかと思案した。
エレクトナは、そんなオリリエを「兄のウィルトンとよく似ている」と思っているが、令嬢の内心はオリリエには分からぬことだ。
女らしい愛らしさがありながら、今や誰もが認める英雄となったウィルトンに似ていると、そう領主令嬢は思っていたのである。
「センド様は、ご領地を治めるのにお疲れなのですか?」
「ええ、そうね。もうお年ですもの。当然だわ」
そのエレクトナの物言いに、言外(げんがい)の含みを感じ取る。
嫌だ、どうせならはっきり言ってほしい。そうオリリエは思う。
兄に、今の領主から力ずくで地位を奪えと言いたいのだろうか。そんな事を考えながら会話をするのは、心底疲れるのだ。
エレクトナの暗い色の金髪が、魔術の灯りに揺らめいて光る。彼女が首を軽く横に振ったからだ。
ヴァンパイア化している令嬢の髪は、いぶし銀ならぬいぶし金とでもいった色合いで、黒みがかった落ち着いた色をしている。
瞳の色も、黒みを混ぜたような暗い赤だ。髪の色とよく合っていた。肌の色は、今はアントニーと同じく、死人のように蒼白い。
オリリエは深く息を吸い込んだ。それから細く長く吐き出す。気持ちを落ち着けるためだ。これから口にすることは、かなり重大である。
「センド様ご自身は、隠居なさるおつもりなのですか?」
自分の声が、夜風の舞い込む室内に漂うのをオリリエは聞いた。エレクトナは不思議なほど冷静だった。眉一つ動かさぬままに、
「いいえ」
とだけ返してきた。
「あの、ではどうやって」
エレクトナは片手を上げてさえぎった。優しいしぐさで威圧的なところは何もないが、優しさの奥には冷やかさがある。オリリエの背筋には慄(おのの)きが走った。
「ねえ、貴女は貴族の地位が欲しくはないかしら?」
「は、私が、貴族に?」
兄が、盟友と呼んでいた新種のヴァンパイアと共にデネブルを倒してからは、兄も自分も何らかの地位は与えられるとは思っていた。
貴族の地位ではない。何か……平民でありながら特別な何か。
「そんなことは考えたこともありません」
「貴族社会への憧れはないの?」
「それは、あると言えばありますけれど。でも本当に貴族のお仲間に入れていただけるのでしょうか? 私たち兄妹は田舎者で、貴族社会の常識も振る舞い方も知りません」
エレクトナは微笑みながら聞いていた。オリリエは続ける。
「生まれながらの貴い生まれの方のようには、十年経ってもなれないのではないかと思うのです。それに……恥はかきたくありません」
「そんなことは、気にしなくていいのよ」
エレクトナは安心させるように笑う。その笑い方にも、何とも表現のしようがない気品があり、オリリエとしてはますます自信がなくなってくる。
「私は兄の好みを知っています。兄は、ややこしい事は好きではありません。政(まつりごと)なんて無理なのです。兄は、湖か川辺で釣りでもしてのんびり暮らしたいのです。いざという時には、助けてくれるでしょうけれど」
「いざという時だけでは困るのよ」
ここで初めて、エレクトナは語気を強くした。
オリリエは驚きはしなかった。焦りはした。何とか礼を失しないように、自分の考えを伝えなければ、と。
「兄に何ができるとおっしゃるのでしょう? 戦う事と、川で漁(りょう)をする以外には大した事はできません」
「それだけでも充分に素晴らしいわ。でも、もっと素晴らしい事がお出来になるでしょう」
エレクトナは立ち上がり、オリリエの座る椅子のかたわらに立った。片膝を床に着き、ひざまずいて頭を下げる。
「どうかお願い。地下世界へ行ったきりにならないで、地上で私たちを助けて。ウィルトン殿がお戻りになったら、そうお願いして欲しいの」
オリリエは呆然として令嬢を見下ろしていた。
続く