【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第16話
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窓の外から春雷が鳴り響いていた。外側の木戸と内側の硝子戸の双方までもがびりぴりと震える。
「激しい雨ですわね。少し窓を開けてもよろしいかしら?」
「こんな嵐の中を、ですか?」
ウィルトンは訝しんだ。令嬢は何を考えているのだろう、と思う。
「きっと、良い風が入りますわよ」
エレクトナはさっさと立ち上がって、それでも急ぎ過ぎない優雅な足取りで歩んでいく。
壁に一つだけ、小さめの窓がある。エレクトナはまず硝子戸を、次にウィルトンが止めるものも聞かず木戸をも開け放つ。
「まあ、なんてきれいな紅い月なのでしょう」
「え?」
ウィルトンは長椅子から立ち上がり、盟友をそこに残して窓辺に駆け寄った。
「まさか、こんなことが」
春雷は鳴り響き、轟々と風は鳴っている。常緑の木々が太い枝も細き枝も揺らし、葉がざわつく音を立てているのが聞こえる。
しかし紅い月は見えた。今にも消え入りそうな細い月が見えた。
「もうすぐ新月ですわね」
「雲が見えない。空は……晴れている」
「雨も止んでいますわ」
「よく分かりましたね」
「庭に外気を探知する仕掛けがありますの。簡単には作れませんわ。古王国時代から残る物を、代々改良して今でも使っていますのよ」
エレクトナはそう言うと、おのれの左手の中指にはめられた指輪を見せた。晴れた日の湖のように透明で青い石を研磨して出来た指輪だ。
「これで。感知できますのよ」
「とてもきれいですね」
「ふふふ、ありがとう。私のことでなくとも嬉しいですわ」
「え? あ、いや、あのエレクトナ様も、とても美人ですよ」
「そう? お世辞でもありがたく受け取っておきますわ」
「……」
お世辞ではなかった。実際、ウィルトンの目から見て眼前の貴族令嬢は非常に美しかった。背中を優美に流れ落ちる黒髪、きらきらとして澄み切った黒い瞳、上等な白磁のようななめらかで白い肌。
彼女の祖母にも、未だ品格や威厳と共に同じ種類の美が微かに残っている。さすがに女領主の髪は白く、肌もたるみ、しわが寄ってはいたが。
「新月は明日ですわ。ほら、ご覧になって。銀の月も雲間から出てまいりましたわ」
「本当だ。なんてきれいなんだろう」
細い細い消えそうな月影。その月影によって、風に揺らされる木々の陰が地面に落ちる。ごく淡い陰だ。
「もうじき、風も止みますわ」
「分かるのですか?」
「分かりますわ、私には」
実際に令嬢の言うとおりだった。
「それで、我々に何をさせたいのですか?」
何度目かの問い掛けになる。令嬢は微笑んだ。
「老貴族は貴方がたを亡き者にしようとしていますわ」
「それは確かなのですか」
アントニーの方を見ると、彼は長椅子に腰掛けたまま、こちらを見ていた。会話は聞こえているはずである。ヴァンパイアではなく人間の耳でも聞き取れるはずだ。窓からさほど離れてはおらず、声も小さくはしていなかった。
「確かですわ。私も祖母も、人質をいたずらに信用はしておりませんわ。いろいろ調べてありますの。身辺を探って、こっそり出した手紙や、自分の屋敷から連れてきた召使いとの会話も扉の外から聞き取らせましたもの」
「そうなのですか」
ウィルトンはいい加減うんざりしてきた。面倒くさい話だな、と思う。妹のオリリエを、こんな面倒くさい貴族連中の生活に巻き込みたくはない。もう引き返せないのだろうか。
「でも、たかが年寄り一人です。どうしようもないではありませんか? 孫の勢力も大きくはない。恐れることなど何もない。そうではありませんか?」
「ええ。武力や暴力、あるいは魔術の力なら、何も恐れることはありません。でも、彼は不思議な影響をこの邸内に及ぼしている。貴方がたを危険だと思う者が増えるかも知れないの。お祖母様も、そうお考えになるかも知れないのよ」
「いや、なぜ俺たちよりもその人質を信じるのですか」
「必ずしも老貴族を信用してはいないわ。でも、貴方がたへの疑心は膨らむの。きっとそうよ」
まずいことになったな。ウィルトンは思う。宿屋の主人から聞いていた通りだが、あらためて貴族令嬢の口から知らされると、うんざりするだけでなく焦りに似た気持ちも湧いてくる。
「アントニーはどうなるんだ?」
俺より、古王国時代からの貴族であり、かつてはこの地の正統な領主であったアントニーの方が、より危険視されやすいだろう。
「せっかくデネブルを倒したのに、なぜこんなことに。めでたしめでたしで終わってくれればいいのに」
「おめでたいことですわ。領民たちは喜んでいます。後は、私たち貴族のお仕事ですのよ」
「俺たちは領主になり代わるつもりはない。信じてはもらえないのか」
「そこで一つ手がありますの。アーシェル・シェルモンドに会いに行って、彼の信頼を得ましょう。彼に貴方がたがいたほうが望ましいと思わせるのよ。そうすれば老貴族はアーシェルに見限られる。彼は孤立無援になるのよ」
「なるほど。しかしアーシェル殿とは関係なく、老貴族がすでにご領主殿の信任を得ていたらどうなるのですか?」
「まだ、その心配はありません。ですから今のうちに。隣の領地はここから近いわ。すぐに出掛けましょう」
続く