【和風ファンタジー】海神の社 第二話【誰かを守れる人間になれ】
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「そうか。お前の覚悟を聞けば、きっと希咲《きさき》も喜ぶだろう」
覚悟? 宮部の言い回しに鷹見はなおさらに不吉な思いがした。覚悟が必要なほど、目覚めてもなお希咲の具合は悪いのだろうか。
鷹見の不安な心情ははっきりと表に現れるほどであり、鷹見自身も自覚していたが、宮部はまるで気づきもせぬ様子で続けて言った。
「海神《わだつみ》の社の奥に、『海神の癒やしの森』があるのは知っているな?」
「はい。海神社《わだつみしゃ》の鎮守の森ですね」
「そうだ。さほど大きな森ではないが、今そこは南城《みなしろ》希咲だけの場所になっている。森の中には、白木で出来た広い建物がある。そこが施療院だ。お前は森の奥までは入ったことはないな?」
「はい」
特別に海神社の世話になると決まった者、その世話をする神聖な役割の『癒やしの巫女』しか入れない場所だ。今の癒やしの巫女は、手古名《てこな》という名の美しい乙女だと聞いていた。
「手古名《てこな》は、お前が希咲に会っても大丈夫だと言ってくれた。私も鎮守の森の中までは行こう。お前は施療院の場所を知らないからな」
そう言って宮部は、わざわざ自ら先に立って案内してくれた。
海神の社は海のそばにあり、稲神の社からは離れている。海は切り立つ崖《がけ》の真下にある。崖の上はゴツゴツとした黒っぽい岩に覆われていて足場は良くない。海の近くのあたり一面がそんな有《あり》様《さま》だ。海神の社はそんな峻厳《しゅんげん》な景観のただ中に、崖の際《きわ》にあり、威容《いよう》を現していた。
地面に土はあらわでなく、大木どころか草の一本も見えない。ここで体内の『気』を消耗すれば、新たに確保するのは困難だ。あの時、南城希咲が海の荒御魂《あらみたま》の化身と戦った時にもそうだった。
他に手立てはない、と希咲は判断したはずだ。そう鷹見は思う。鷹見だけではない。希咲を知る者は皆。
鳥居と社は、海に染まったような青の石で出来ている。黒みがかった岩と、鳥居や社の青さ、青い社の奥の、緑と紅葉した木々の鎮守の森。遠目に見ても見事な色彩の対比の妙《みょう》だ。
「よし、ここ先はお前一人で行け。わたしには他に用がある」
「はい、ありがとうございました、宮部様」
まだ何処《どこ》かの荘園領主の娘と逢引《あいびき》でもなさるのであろうかと思ったが黙っていた。
社の下の海の波は、穏やかな時も荒々しい時もある。自然界の有り様そのままなのだ。和御魂《にぎみたま》と荒御魂《あらみたま》である。
自然には、自然界の神々には、二通りの顔がある。荒々しく時に害をなす荒御魂と、和やかで人々に益のみをもたらす和御魂。
その二つの力を借りられる者こそが華族であり、支配者としてこの世界に君臨する。中でも、外側の力として借りるだけでなく、己《おのれ》の内にその力を宿らせる者は、依《よ》り代《しろ》と呼ばれ、特に力も強く、優れた存在とされる。
「希咲様は、その依り代の中でも、さらに一際《ひときわ》優れた方だった」
「鷹見さま。宮部さまはお帰りになったけれど、私はついていきたい、です」
真鶴《まつる》が言った。塗《ゆ》り下駄《げた》を履《は》いた足でぴょこぴょこと軽やかにその場を跳ねる。地面の岩と下駄のぶつかり合う音は一切しない。それも不思議ではない。真鶴は人の身ではないからだ。
「いいよ、来てくれ。きっと希咲様もお前には会いたいとお思いになるだろう」
「何か手みやげを持っていきます」
真鶴は岩の上の小石を拾った。見る間に少女の手の中で白く光る小石と化してゆく。
「ね、綺麗でしょう? ろうそくの灯りよりも明るいの」
「あ、ああ」
この技を見るのは鷹見も初めてのことで、一瞬は言葉を失った。
「はい、持って。鷹見さま。あなたから渡して」
「なあ、俺に『さま』は止めてくれないか」
鷹見は石を受け取って、困ったように稲神の使いの少女に言った。
「あら、どうして?」
「俺はそんな呼ばれ方をするほど立派ではないよ」
「立派ですよ。あなたの力の成長が遅いのは、あの時、希咲様に《気》を譲り渡したから。皆知っています」
「それは、それは立派でも何でもない」
鷹見の声には、深くて強い苦しみが表れていた。七年の間、ずっと持ち続けていた苦しみが。
「でもあの時あなたがそうしなければ、希咲様の力だけでは魔神を倒せなかったのに」
「でも、その代わりに」
「きっとそれも今日限りで終わりなんです。でなければ、宮部様が会いに行けとおっしゃるはずはありません」
「そうか、そうならいいな」
鷹見はそれ以上何も言わなかった。先に立って海神社の社殿《しゃでん》の裏手に周る。そこから先には、鎮守の森が、別名『海神の癒やしの森』が広がる。
二人は森の奥へと進んで行った。さわさわと葉擦《はず》れの音が鳴る。きらきらと木漏れ日が落ちて煌《きら》めいていた。
紅葉している木々と、緑のままの木々が入り交じる。松や杉のように細い葉の木は見当たらない。
「樫の木はいつも緑ですね」
「常磐《ときわ》の緑だな。縁起がいい」
施療院は杉の白木作りであった。庶民の暮らす家、三軒分くらいの大きさであろうかと鷹見は思った。造りも上品だが簡素で、余分な飾り気はない。近くまで寄るとかすかに、杉の木の清涼な、心落ち着かせる香りが漂ってきた。
出迎えてくれたのは、白い着物に身を包んだ若い女である。少女と大人の女の中間の、みずみずしい若さと清楚さをあふれさせた娘であった。
「手古名《てこな》殿、ですね。初めてここに参りました。神田山《かんだやま》鷹見と申します」
「鷹見様、ようこそいらっしゃいました。希咲様もお待ちですよ」
「私はここで待っています。行ってきてください」
真鶴はそう言って鎮守の森の何処《どこ》かに姿を消した。鷹見には、真鶴の姿を目で捉《とら》えられないことは度々ある。
「あの、真鶴は」
「稲神様の方から、ですね。大丈夫です。海神様との間には、隔意《かくい》はありませんから」
つまり、祀《まつ》られている神々の間にも、隔意がある場合もあるのだ。むろん鷹見は知っていたが、改めてそれが無いと聞かされるとほっとする。
「よかったです」
「どうぞお上がりください。草履《ぞうり》はそこでお脱ぎになってくださいませ」
施療院の床は湿気が上らないように地面より高くなっており、段差には大きくて平らな岩が置かれていた。その岩の上に草履を置いて上がる。木綿の足袋を履いただけの足に、白木の床の感触が快い。
横開きの木戸を閉めてから、白い着物の女は先に立って案内をした。
「南城様、神田山《かんだやま》鷹見様がおいでです」
その時、障子の向こう側で息を呑む声が聞こえた気がした。
「希咲様、私です。鷹見です」
その声を発した時に、一気に七年前のあの日の想いがよみがえった。
「入ってもよろしいでしょうか?」
しばしのためらいが伝わってきた。
「今の私は、お前が知るあの頃の私と同じ姿ではない。それでもかまわないのなら、入って来て、私と会ってくれ」
冷たい感触が、背筋とみぞおちから腹を滑《すべ》り落ちていった。ここに来る前に宮部が口にした、不吉な言葉の響きを思い出す。
──お前の覚悟を聞けば、きっと希咲《きさき》も喜ぶだろう──
すでに意は決していた。ここに来る前に。
「どのようなお姿でも、私は気にしません」
ただ、それだけを告げた。
あなたは私の村をお救いくださった私の英雄です。あなたは、死せる後には英雄神として新たに社に祀られる方です。今の人の身の姿など、大した意味はありません。
癒やしの巫女である手古名《てこな》は姿を消していた。
「ありがとう。では入ってきてくれ」
手が震えるのをこらえながら、鷹見は障子を開けた。