ウィルトンズサーガ【厳然たる事実に立ち向かえ】3作目『深夜の慟哭』48話
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呪われた地下世界のさらに地下へと下る通路は、急な坂が曲がりくねって続いていた。大岩の中の通路だ。荒っほいけずり跡がある。巨大なミノでけずったような跡が。
「誰が造ったんだ、この通路を」
「それは誰にも正確には分からないわ。そうね、暗黒神ダクソスが私たち妖精を呪った時、ある小神、力なき優しき神が造ったとも聞くわ。でも誰にも分からない。私たちの先祖のいくらかはここに逃れ、けれど魔法が使えないので数年で滅びたとも聞くわ」
「そうか」
ウィルトンはやるせない気分になった。優しさと無力さ。それは何という残酷な取り合わせだろう。
「その名も知られていない小さき神の残した安住の地は、まだこうして残っているのよ。嘆くことはないわ」
ブルーリアは慰めの言葉を口にした。ウィルトンは、
「そうだな」
とだけ返した。
じきにその安住の地に着いた。半刻のさらに半分だけ、通路を下りてきたのだ。
眼前に広がる地は美しかった。様々な形と色合いの花々が咲き乱れ、青々と緑の草木が生い茂っている。
地上で見るような空も広がっていた。黄昏時の、薄青い、紫色の掛かった空だ。薔薇色や黄金色に染まった雲も空を流れている。
「きれいだ!」
ウィルトンは、思わず大きな感嘆の声をあげた。
見れば木々には、みずみずしい果実も実っている。
「あれは美味そうだな、食えるのか?」
「食べられるわよ」
「よし、食おう!」
「花の蜜もたっぷりあるわ」
「そうか、魔法が使えなくても、そこは大丈夫なんだな」
ウィルトンは返事を聞かずに走り出した。見るからに美味しそうな実のなる、優美な姿のほっそりとした木に向かって。実は金色に輝き、葉は赤く色づいていた。
近づいていくと、ウィルトンが何もしなくても、木は自ら実を落としてくれた。木のそばには、清水の湧く泉がある。
「よし、実(み)は洗って、水も飲むぞ」
見れば泉はもう一つあり、そこからは赤いワインが湧き出していた。芳醇(ほうじゅん)な香りがただよう。
「アントニー! 赤ワインもあるぞ」
盟友は歩いて近寄った。
「ああ、何と素晴らしい」
かがみ込み、香りを吸い込んでいる。
彼は背負い袋から、ピューター製のゴブレッなトを取り出した。赤ワインを汲(く)み、そっと一口。
「ああ、なんと美味しいのでしょう。これまで飲んだ、どのワインよりも素晴らしい味と香りがします。みずみずしい摘みたてのぶどうのようで、それでいて熟成された深みのある香りがする。その二つが調和して見事な味わいになっています。ウィルトン、あなたも飲んでみますか?」
そう言われるとウィルトンも、是非味わってみようという気になった。アントニーからゴブレットを受け取り、自分も赤ワインを汲んだ。香りを嗅いでから 一口。
「美味い! これは実に美味いワインだ。しかも、 いくら飲んでも酔っ払ったりしない、そんなワインなんだ。しかしまあ、じっくりと飲むことにしよう。こんな良いワインは、がぶがぶと飲んだりするようなもんじゃないな。もっとこう、お貴族様がするように、お上品に飲まないとな 」
そう言って、冗談めかして笑ってみせた。
黒髪黒目の今や英雄と認められるようになった男は、自分の背負っている槍を地面に置いた。背負い袋も下ろして、今度は両手で泉の清水をすくって飲んだ。
泉の水は冷たく、とても清々しい味わいがした。 ただ一口二口と飲んだだけで、体中に生気が湧き上がる。そんな心地がした。
「この水も美味いな。ブルーリアは、水は飲むんだろう?」
ブルーリアはうなずいた。
「ええ、飲むわよ。ここでは魔法は使えないから、あなたに飲ませてあげたような水の玉を出せないもの」
しかし青い髪の妖精は、そのように言っただけでその場では水を飲もうとはしなかった。
彼女もウィルトンたちと同じように、柔らかな草と芳(かぐわ)しく美しい花々が咲き乱れる地面に腰を下ろした。深い青の髪を手で後ろに流し、ほっと安心したように息を吐いた。
「よかったわ。ここに来られて」
「でもこれから先は長いんだろう? ロランのための体を取り戻しても、それでもまだ先は長い。この地下世界の呪いを解くために、それからまだ何をしなくちゃいけないんだろう。ブルーリアは知っているか」
ウィルトンはそう尋ねた。彼は地面に仰向けに寝て、両腕を枕にして空を見上げていた。 見上げる空は美しい。紫色と薄紅の雲が、風に乗って流れていく。地上で何度も見た黄昏時の空よりも、さらに鮮明で美しい。
まだ夜にはなっていない。微妙な時間のその時にだけ、空が見せる美しさだ。まだ空は青い。
「なあ、ここでは夜になることはないのか」
「夜にはならないわ。朝にも昼にもならないの。ずっとこんな風に、黄昏時の薄明るさが続くのよ」
「そうなのか。こんな綺麗な空をずっと見ていられたら、どんなに素晴らしいだろうな」
そこでウィルトンは思い直した。
俺はいつかその美しさにも心地よさにも飽きてしまうんじゃないだろうか、と。
自ら危険と戦いを求めるほど、冒険に飢えているわけではない。これまでしてきたことも、今していることも、自分がしなければならないと思うからするのだ。
にもかかわらず、仮に全てが終わって、ずっとこの平和で美しい土地にいられたら、呪われた地下世界のすべてがこのような美しさと心地よさを取り戻したら、俺は どうなってしまうんだろう?
ウィルトンは考えた。
いつかは俺は飽きてしまうんじゃないだろうか?
地上の喧騒に戻りたいと、そう願うようになるんじゃないだろうか。
そう思ったのだった。
アントニーは、ウィルトンのそばに寄って座り込んだ。
「あなたが何を考えているかは分かります。でも今それを考えても仕方がありません」
「ああそうか、俺の考えていることが分かるのか。 なら当ててみろよ。俺が今何を考えているのか」
「あなたはいつか、このような幸せに飽きてしまうのではないかと、そう考えていますよね。私には分かります」
「ああ、そうだ。よく分かったな」
ウィルトンは驚いた。同時に、自分の考えが見抜かれてしまうことは、予想していた気もしたのだ。こいつなら、アントニーなら分かるはずだ、と。
「お前はどうなんだ? 絶対に飽きたりしないか」
「飽きないですよ。私は戦いの日々にこそ飽きてしまったんです」
青い髪に黒い肌の妖精の方を見ながら、あわててこう言い直す。
「もちろん、この地を解放するための戦いを投げ出すつもりはありません。そうしなければこの地下世界だけでなく地上にも、そう、私の領地だった地に暮らす人々にも、本当の意味での安寧は訪れないのですから。私は最後の責任を果たしましょう。でもそれが終わったら」
アントニーは最後まで言わなかった。
続く