【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第18話
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二人は客間に戻って、豪華な貴族の服を旅の服に着換え、それぞれの武器と背負い袋を手に取って屋敷の外に出た。
「アントニー様、何があったのですか?」
ロランは背負い袋に押し込まれたまま、不安そうに尋ねた。主(あるじ)を案じているのが伝わってくる。
「何もないよ。心配しなくていい。ただ、お隣の領地の貴族のところへ行かなくてはならなくなった。お前も連れて行くから」
「はい、アントニー様」
「オリリエをこのままにしておいて大丈夫なんだろうか」
「村にいた方が安全でしょう。私は連れてくるようには言いませんでした。かえって争いに巻き込まれてしまいます」
「そうだな」
「ロランは一人で暮らせないので連れてゆきます」
「そうだな。オリリエは背負い袋には入(はい)れない」
冗談めかして笑う。不安が透けて見えるような笑みに見えたことだろうと、ウィルトンは思った。
「大丈夫ですよ。いざとなれば村の人々は、彼女を逃してくれるはずです」
「ああ。きっとそのくらいはやってくれる。よし、何とかアーシェル殿と話をつけてくるか。ところで、老貴族の家名はアンタラスだと宿屋の主人からは聞いたが、シェルモンドではないのか。まあ、お貴族様の内情を、平凡な宿屋の主人がそこまで正確に知っているわけはないか」
俺も知らないしな、とウィルトンは軽口をたたくように言った。
「私の記憶が正しければ、アンタラス家はシェルモンド家の本家であり、しかし分家より先に没落した家のはずです」
「本家?」
「ええ。婚姻関係にあり、代々アンタラス家の姫の一人はシェルモンド家に嫁いだのです。シェルモンド家は、アンタラス家の臣下の貴族だったのです。領主ではなく」
「元々は?」
「ええ。元々は」
「なるほど。戦(いくさ)がなくとも、デネブルの支配下を生き延びるのは大変だったんだろうな」
「デネブルに支配されていなくとも、四百年経てば没落したかも知れませんが」
「確かにそうだ。するとなんだかんだでシェルモンド家はまんまと生き残ったんだな。勢力は小さくとも」
「そうですね。私はアーシェル殿に会うのが楽しみです。今の状況の突破口を開けるかも知れませんから」
「そうだな、令嬢の話を聞く限り、頭の良い男のようだ。少なくとも馬鹿とは思えない」
二人は裏庭に来た。令嬢エレクトナは、微(かす)かな月明かりと、またたく星空の光の下で待っていた。
「おいでになったのね。お二人でお逃げになるかも知れないと思っていましたわ」
ふふ、と笑う。華やかな笑みは、澄んだ空気の夜の中にはじけた。令嬢は例の青い透明な石の指輪をかざす。松明(たいまつ)のような明かりが灯り、周囲を照らし出した。
「エレクトナ様、俺はあなたが味方だと信じていますよ。逃げはしません」
「信じてくださるのね、嬉しいですわ。さあ、私たちはバーナース家の屋敷に背を向けて、裏門から出ますの。今いる屋敷の裏庭は、このウェルドの都市を守る北の外壁に面していますわ。ですから裏門を出ればすぐに街の外、北に向かう街道に出ますのよ。真っ直ぐに進めば、大きな湖が見えてきますわ。その向こう側にアーシェル殿の領地がありますの。あちらのお屋敷もすぐそこに」
「湖のほとりにあるのですね?」
ウィルトンは念のため聞いた。
「ええ。こじんまりとした、でも美しいお屋敷ですわよ。何度か私は招かれましたわ。もちろん、単なるお遊びに行ったのではありません。これも貴族のお仕事。こうして友好を保てば、領地も領民も安全になりますの」
「そうだったのですか。デネブルの支配下では、勝手に争い事を始めるような貴族がいるとは思えませんでしたよ」
「ええ、普通に考えれば、そうね」
令嬢の言い方には含みがある。
「普通では考えられない事をしでかす者もいますね、貴族の中にも。デネブルが支配している四百年、何もなかったわけではありませんから」
と、アントニー。
「そうなのか?」
「ええ。このあたりは比較的平穏とは言えたでしょうが」
「平穏か。まあ貴族同士が勝手に戦(いくさ)を始めるよりはな」
「戦が始めると、デネブルはしばらくは放置していました。たくさんの人々が死に絶え、大勢の苦しむ人々が助けを求めてきてから、仲裁するか、片方、あるいは両方の貴族を滅ぼしました。そうやって、支配をより強めたのです」
「悪どいやり方だ。でも、ある意味それは、ヤツが自分の領地で明主であった時のやり方にも似ているんだろうな。民を救えねば、支配者たり得ない」
「ええ、力で抑えつけるだけなら、四百年は保ちませんでした」
三人は連れ立って歩き出した。屋敷を背に、どんどん遠ざかる。振り返りもせずに、エレクトナは先に立って歩いた。ウィルトンとアントニーはついて行く。
「大悪が滅びて小悪が蔓延(はびこ)る。そんなことになっちまうのか」
「出来るだけ、そうはならないようにしましょう」
ウィルトンはため息をついた。らしくねえな、俺は元気をなくしているぞ、と自覚する。デネブルを倒す前は、そうではなかった。倒してからも、こうしてエレクトナから話を聴くまでは、何とかなると楽天的に考えていた。
「どうやればいいのか分からんな。貴族ってのはこんなもんなのか」
「いつの時代も変わらない部分はありますね。古王国時代のように、戦乱の世ではないのが救いです。戦乱となれば民が巻き込まれますから」
「俺はもう民の中に含まれないんだな」
「残念ながら」
「残念ではありませんわ。お二人の名声はお隣の領地にも聞こえています。アーシェル殿は、あなた方を味方にしたいと考えています」
「分かるのですか?」
ウィルトンの胸に希望が芽生えた。
「あそこの湖を渡れば、アーシェル殿の領地ですわ。私はそちらへ行っていましたの。晩餐に間に合いましたが、本当はもっと遅くなるはずでしたのよ」
ウィルトンは驚いた。
「あの湖は大きいですよね。そんなに簡単に渡れるとは思えないのですが」
「ええ。普通の船で渡るのではありませんもの」
「何か魔力があるのですか?」
「魔力ではありませんわ、ウィルトン様。水竜に引かせますのよ」
「水竜?!」
素っ頓狂な声を上げる。アントニーは横で笑った。
「水竜ですか。古王国時代の生き残りですね。今はすべて、地下の水脈か、水底(みなそこ)に沈んで、人間とは関わらないと思っていました」
「古王国時代の生き残り?」
「ええ、あまり知られてはいませんが」
「なんでそんなもんが?」
「海にはいないのですよね。大きな湖でないといませんから、古王国貴族なら誰でも使役出来たわけではありません。私も飼いならした試しはありませんでした」
「じゃあここにいる水竜は、シェルモンド家が、デネブルによってお前の領地を与えられた時にか?」
「おそらくはそうでしょうね。それからバーナース家に引き継がれたのでしょう」
「その通りですわ。さすがはアントニー様」
令嬢はにっこりとしてみせた。彼女が岸辺に立ち、青い指輪を掲げると、細く澄んだ音が鳴り響いた。
水面が波立ち、長い首を現したものがいた。トカゲのような頭部だが、首だけは長い。全身を、令嬢の指輪と同じような透明な青いうろこで覆われている。うろこの下には、やはり青い皮膚が見える。晴れた日の湖の色。
「では、参りましょう」
エレクトナはそう言って、水竜が首に結わえつけた紐に引かれた舟に乗り込んだ。
続く