【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ『深夜の慟哭』第34話
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ウィルトンたちはブルーリアに連れられて地下世界へと下りていった。呪われた妖精は、二人を地の裂け目に導いた。
地の裂け目は、湖に流れ込む川のそばにあった。川辺には、大柄なウィルトンの三倍もの大きさの巨石が並ぶ場所がある。地の裂け目は巨石の間に隠されていた。
「案内してくれて助かったよ。これじゃ探し出すのに苦労しただろうからな。ブルーリア、あんたは俺たちを探しに来ていたのか?」
「そうよ。偶然に出会ったのではないわ。私はあなたに希望を抱いているの。だから、ここへ連れて来るつもりでいたわ」
あなたに? あなたたち、ではなく。ウィルトンは怪訝な顔をした。
「連れて来たかったのは俺だけなのか?」
直接的に訊いてみる。
「ふふ、そうね。ネフィアル女神を信仰する者を歓迎する理由は、本来はないはずだもの。でもヴァンパイアさん、あなたも私を助けてくれるなら、ウィルトンと共に来るのなら、拒む理由もないわ」
「拒む理由はない、ですか」
アントニーは繰り返してみせた。何とも微妙な言い回しである。そう思った。かつて自分たちを救わなかったネフィアル女神を、その信徒を恨みこそしないものの、決して快くも思ってはいないのだろう。
ウィルトンは、アントニーの考えを察して、
「とにかく、アントニーは俺の盟友で、あのデネブルを共に倒した男だ。あんたたちの呪いを解くにも必ずアントニーの力は必要になる。俺一人ではなく、アントニーと共に行かなくてはならないんだ。分かってくれ」
と、ブルーリアに訴えた。彼女が理解してくれるのを願っていた。
「分かるわよ、英雄さん」
ブルーリアはまた妖しく微笑んでみせた。その笑みはウィルトンにだけ向けられており、アントニーには決して見せようとしない。
ウィルトンは考えた。これは何故だ、と。ネフィアル女神を信仰しているから忌避しているのだろうか。言い伝えによれば、救いを拒んだのは妖精たちの方だとされている。だが、妖精たちがどう考えているかは分からない。
「ネフィアル女神に見捨てられたと思っているのか?」
「いいえ」
ブルーリアは、ごく短くそれだけを口にした。
ウィルトンは、それ以上を訊きたかったが、止めておいた。
ブルーリアは先に地の裂け目に入っていった。巨石の間の地面にひび割れとして穿(うが)たれた穴だ。
ブルーリアの姿が地に隠れてゆく。見れば、地の裂け目の中は、ゆるやかな狭い坂になっていた。地面は暗い灰色で、徐々に薄闇の中に沈んでいて先は見えない。
「明かりを点(つ)けでもかまわないですか?」
アントニーは、夜目の利かないウィルトンのためにだろう、ブルーリアにそう尋ねてくれた。
「いいわよ。でもあまり明るくはしないで。他の妖精たちがびっくりしてしまうわ」
「分かりました」
アントニーは素直にうなずいてみせた。
ウィルトンたちはブルーリアに続いて、地下世界に下りていった。
ゆっくりとした深い呼吸を五回ばかり繰り返した頃、足元に見えない何かが現れた。気配を感じ取れた。微かに、風が流れるような触感もあった。しかしアントニーが灯してくれた明かりがあっても姿はまるで見えなかった。
「足元に何かいるのか?」
「風の精ね。害などないわよ。あなたたちが何もしない限りはね」
ブルーリアは、ふふふと笑う。謎めいた笑い方だ。
足元に水が触れた。とても透明で、穏やかな湖の岸のように水が打ち寄せている。
「前に来た時には、水が張ってはいなかった」
ウィルトンは言った。水中に入るのなら、ずいぶんと勝手が違ってくるだろう。息はアントニーの魔術でどうにでもなるとしても。
それにアントニーはヴァンパイアだ。大量の水に濡れるのは危険だ。
「このまま下りていって。水面を抜けたら、下には水はないわ。私たちの頭上に水面があるわ。そんなふうになっているのよ、今は」
ブルーリアは安心させるように穏やかに告げる。
「今は? 何故、以前は頭上に水が見えなかったんだ?」
「時々、こうして現れるのよ」
ウィルトンは振り返り、アントニーと顔を見合わせた。
アントニーが尋ねる。
「地下世界は安定していないのですね」
「そうよ。それもまた呪いだから」
ブルーリアは答える。あからさまではないが、やや素っ気ない。ウィルトンに対するのとは違っている。
アントニーは、気にしないことにした。
「そうですか。何も予測は出来ないのですか?」
「ある程度なら」
「この水は危険ではないのですか?」
ブルーリアはふふと笑う。
「あなたには危険よね。私たちにはそうではないわ。水の中でも、どうということはないの。ウィルトン、あなたは泳げるかしら?」
「ああ」
「それなら大丈夫ね」
「待てよ、アントニーはどうなるんだ」
ヴァンパイアは大量の水を浴びると身体が弱る。ウィルトンはもちろん、それを知っていた。
いつも身体を拭(ふ)くだけなのもそれが理由だ。
「自分の魔術で、どうにでもできるでしょう?」
ブルーリアの言う通りだ。それくらいアントニーには出来る。ウィルトンは呪われた妖精の冷淡な言葉が気に触ったが、そうだなとだけ答えた。
ここで言い合いをしても仕方がない。呪いを解くと決めたのだ。呪いを解けば地下世界で平和に暮らせる。きっと。
ブルーリアの姿が水面に沈んでゆく。ウィルトンは後に続く。再び振り返ってアントニーを見た。
アントニーはこう思っていた。
私はここに来た覚えがある。しかし、いつだったか思い出せない。遠い昔である気がする。きっと古王国がまだ存在した時代に。
古王国はまだ存在した。あの時には、まだ存在した。
いつだったか。まだ私がヴァンパイアではなかった時代に。
アントニーは懸命に記憶を探る。
「アントニー? どうした?」
「私は以前にもここに来たことがあります」
「何だって?! 何故それを先に言わなかった?」
「今、思い出したのです。でも正確には思い出せない。多分、私が人間だった頃に……」
「ブルーリアは? 何か知っているか?」
問い掛けに彼女は答えなかった。すでに水面を抜けて先に下りていた。水面(みなも)が揺れて彼女の美しいすらりとした姿もゆらゆらと揺れる。
黒い肌と深い青の髪の身体に、幾重にも白い布が巻きつけられている。白い布は、彼女の身体の線を隠し過ぎず、露わにしすぎてもいない。
「先に下へ下りよう。水は大丈夫か?」
「少しなら大丈夫ですよ」
アントニーはウィルトンの横に並び、靴の先を水につけた。
記憶がよみがえった。
そうだ。私はここにデネブルと共に来ていた。彼は旧種のヴァンパイアで、たくさんの血を必要とした。時に領内の悪党の血を、時に侵略して来た兵士たちの血を。
それでも足りなければ。
「彼は、まだあの頃は明主として領民に慕われていた。おのれの民に手を出すわけにはいかなかった」
だから。
──領内を脅かす、呪われた妖精なんて侵略者どもと同じだ。なあ、アントニー、お前はそう思うだろう?
ええ、思っています。いえ、思っていました。
今は、どう考えたらよいのか分からない。
あの野犬がそうであるように、地の底からやってきたのなら仕方がない。
でも、そうではなかった。
そうだ、あの時はそうではなかったんだ。
続く