【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ第3作目『深夜の慟哭』第37話
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「畜生、 しぶといな。この犬野郎めが!」
ウィルトンは思わず口走った。頭の片隅で、お貴族様には聞かせられない下品さだと思った。
深い紫の髪と瞳を持つ、古王国貴族の生き残りは気にしていなかった。それどころではない。
呪われた妖精たるブルーリアも気に留めてはいない。今度は ウィルトンが何も言わなくても、水の膜を三つの頭の巨大な犬にかぶせて、動きを封じた。アントニー もまた、その上から『冷気』を放つ。
幸いなことに再び敵を氷に閉じ込めれることができた。 ウィルトンは敵に近づいた。熱気はさほど感じられない。今のうちだ 。
斧や剣と異なり、槍では首を即座に 切り落とすわけにはいかない。鋭さを活かすしかないのだ。ウィルトンは再度、敵の中央の頭の口の中に、槍の穂先を差し入れた。
敵は呻(うめ)いた。動きを封じられていながらも、激しくその場で身震いをした。その振動が槍を持つ手に伝わってくる。
ウィルトンは、さらにその槍を奥まで差し込んだ。ずぶりずぶりと、肉を裂く感触が伝わってくる。
「死ね。倒れろ」
あたかも呪いのように深い情念を込めて敵に告げた。理解する頭があるのかは分からないが、言わずにはいられなかった。
巨犬は吠えた。刺されていない左右の頭が吠えた。ウィルトンの両脇で、耳を聾(ろう)する声が響く。
ウィルトンの右にある巨犬の頭は氷を砕こうとしていた。
「ウィルトン! 離れてください、もう一度──」
ウィルトンは、それだけで盟友の意図を悟った。素早く後方に跳んで敵との距離を空ける。
ブルーリアが水の膜を張った。今度はやや薄い。やはり安定していない。三つ頭の犬の動きを止めるには充分であった。上から『冷気』が掛けられる。氷の膜は二重となった。
真ん中の頭は、下を向いていた。ぶら下がっているようで動かない。左右の頭部は、口を開けてのどの奥に燃え盛る炎を垣間見せていた。
「あと二つだ」
つぶやきながら突進した。ウィルトンから見て左側の頭部に向かう。アントニーも前に出てきた。彼は右の頭の前に立ち、先祖の骨の杖の先を、巨犬の額につけた。
「天の雷光よ、敵を撃て」
ウィルトンのすぐそばで雷鳴が轟いた。二重に張られた氷の膜を通して苦鳴が聴こえる。まだ敵は持ちこたえていた。
ウィルトンの槍はのどを貫いた。真ん中の犬はだらだらとよだれを垂れ流している。動く気配はない。ウィルトンが刺した左の頭部ののどの奥から、炎が見える。炎は吐き出された。
ウィルトンはのけぞった。
「ウィルトン!」
熱い。肌が灼ける。ブルーリアは水を全身に掛けてくれた。冷たい水だ。まだ肌には痛みがある。服に燃え移った火は消えていた。
「お貴族様の衣装が台無しだ」
軽口を叩いてみせる。今もまだ、女領主センドからもらった貴族的な服装のままだ。その上から、地味な革鎧を着けていた。魔力ある槍も見かけは実質だ。決して華麗な装飾など施されてはいなかった。
庶民の家に伝わる物だから、それでいい。
ウィルトンは、氷の膜が溶けてゆくのを見た。空気が熱くなりつつある。溶け切る前に背後に回る。後ろから、六本の尾のつけ根を刺した。
尾は、ちぎれはしなかった。 少なくとも完全には。二本の尾は、根元から取れかけている。赤い血が流れる。 おびただしい量の血だ。
ここで槍を抜いて 敵から離れた。氷の膜は完全に溶けて蒸発して消えた。
敵はかなり弱ってきた。 だがまだ立っている。 足は頑丈でふらつきもしない。 足取りは確かだった。
ウィルトンは、巨大な犬から放たれる熱気を避けて後方に飛んだ。このまま何度も氷の膜を張って、ウィルトンが槍で刺せば倒せるだろう。 上手くいけば。
敵もこちらの作戦を悟ったようだ。 ウィルトンからさらに離れてものすごい速さで 後ろに下がった。
巨犬の左右の頭は、まだ完全に死んではいない。 口を開けて炎を吐き出した。 炎は完全には届かないが、肌を焼くような熱気は伝わってきた、充分に。
ブルーリアが水の膜をまた 張ってくれた。 熱気が遮られて 涼しくなる。 アントニーはいつのまにか ウィルトンのそばに来ていた。ブルーリアはやや離れた位置から魔法を使ってくれている。
何とかしてとどめを刺さなければ。ウィルトンは硬く決心した。
地上に逃げ帰って、自分の盟友を快く思わない女領主のセンドからも逃れて、南の国へ行きたいと思わなくもなかったが、ここで 地下世界の呪いを解けば故郷の村も安泰になる。妹オリリエの身もより一層安全になるだろう。
「氷の嵐よ、吹き荒れよ」
アントニーの、高らかで響きの良い声が魔術の呪文を唱えた。水の膜の向こうで氷結の嵐が吹き荒れる。 嵐にさえぎられて、しばし敵の姿は見えなくなった。
水の膜は消えた。魔法が安定していないのだろう。 守りの水の膜が消えても、 熱気は感じられない。あたりは寒々しいほどの冷気に満たされていた。巨犬の声も、もはや聞こえなかった。
続く