分かってもらおうとしない

創作活動をしていると、よく「分かりやすくすることが大事だ」と言われます。それはその通りで、少なくともある程度の数の人々には、理解してもらわねばなりません。

まあ完全に自己満足や自分ひとりのための趣味と割り切るならいいのですが、大抵の場合は、そうではないでしょうから。

でも、理解されると言っても、自ずと限界はあると思うのですよ。

たとえばエンタメ文脈に乗せて、何かしらテーマ性のあるものを書いたとする。エンタメ文脈に乗せてその市場に流したから、それなりの数の人に読まれる。

だけど表面的にだけ読むのではなく、何人の人が隠しテーマとでも言うべきものに気が付いてくれるのか?

それは、ある程度の数の人が理解すればいいのである。全員に分かってもらう必要はない。

と、いうか、あえて分かりにくくしている場合がある。それはそれで一つのやり方、表現技法なのである。

あなたが人に理解してもらいたがり、考えを伝えたがり、だからこそ物語の中でも、明確に伝えるべきだとするなら、別にその考えはそれでかまわない。変える必要はない。それはそれで正しい。

ただ、世の中には、そうではないタイプの創作物も存在し、それにも一定の需要があるのだ、ということだけ分かっていればいい。

ところで、エンタメ文脈に乗せて市場に流すと、理解してくれない人が多くなるから、最初から理解してくれる人にだけ売れるようにしたほうがいいとする考え方がある、ようだ。

最初から少部数で売るために書く、作る、といったやり方である。

しかし、理解してくれる人の絶対数は変わらないというか、むしろ広く拡散しただけ、増えるのではなかろうか? と思うのである。

で、そこでふと思った。理解されないのがとても苦痛な人々がいるのだと。

だから「理解されるために(時として情趣に欠けてしまうと思うほど)明確に伝えるべきだとする」。

あるいは「理解してくれる人々にだけ販売しようとする」。

そんなやり方になるのですな。

でも世の中、そうした作り手だけで成り立っているわけではない。

あとはもう一つ言わせてもらうなら、はっきりと明確に書いたなら、必ず理解されるとも限らない。

むしろ、ある程度はぼかしたほうが、読者に強い印象を残し、テーマについて考えさせる、そんな場合もある。

もちろん、全ての読者がではない。明確に書かれたものしか認めない人もいるだろう。

でも、そうではない読者もいる。それも少なからず。

まあ、このブログ記事も理解してはもらえないかも知れないが、とりあえず伝わるようには書いたつもりである。

あとは、あなたの判断次第だ。

ここまで読んでくださってありがとうございました。また次回の記事もよろしくお願いします。



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片桐 秋
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