【厳然たる事実に立ち向かえ】ウィルトンズサーガ2作目『深夜の慟哭』第4話
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「さて、何か食うか。何がある?」
まだ日が暮れたばかりだ。街では田舎の村とは異なり、夕食の時間はやや遅いようだ。まだ食事処には人が来ていない。たった一人だけ、籐で編んだかごを持った女が入ってきて、チーズと芋を注文した。
女はカウンターから離れた窓辺の椅子に座る。腰の高さくらいの位置にあるその窓から外を眺め、やれやれと言うように、肩と首を回して、軽く手でさすっていた。
しわなど寄っていない服。長いスカートと、前を紐で閉じる上着だ。上着の中には、頭からかぶるシャツを来ている。シャツの色は白く、上着とスカートはくすんだ夕日の色だ。赤ではなく、黄色でもなく、その間の色。
ウィルトンの目には、やはり庶民の服装とは思えないほど、布地がぱりっとして、しゃきっとしているように見えた。
「街の女は農作業も狩りもしないんだろうな。いや、男だってそうだ。きちんとした住まいの中で細工物を作って売ったり、店で品物を売ったりする。それが都市の生活だ。俺は行商人からそんな話を聞いた」
街の仕事には他にもあるが、道や広場や公衆の手洗い場や風呂場を、掃除する専門の仕事があるというのが、ウィルトンにとって一番の驚きであり、また興味深い話でもあった。村ではそのような場所は、村人が皆で手分けしてきれいに保つ。独立した仕事にはならない。
「面白いな、街ってところは。話には聞いていたが、実際に見て回りたいもんだ」
いやいや、アントニーとこれからどうするかを相談するのが先だ。まずは何かを食べよう。
「軽食ならチーズとパンでいかがですか?」
「じゃあ、それを頼む」
主人は自ら硬めの歯ごたえのあるパンを二片切り、間にチーズの平べったいかたまりを挟み込んだ。それを陶器の皿に乗せて差し出す。ウィルトンは礼を言って受け取った。
アントニーが二階から下りてきた。
「アントニー、赤ワインは飲んだか?」
「飲みましたよ。ところでご領主の家紋をつけた馬車がこちらに向かっています」
「ここへ?」
「ええ、窓から見ました」
話しているうちに、外から馬車の車輪の音が聞こえてきた。馬数頭のいななきと共に。やがて馬車は止まり、男が一人入ってきた。立派な衣装を身に着けた男だった。黒い上着の丈は長く太ももを覆うくらいで、下穿きもすっきりとした黒の上等そうな物だ。銀糸でわずかに文様が刺繍されている。果実と木の枝を簡略化した文様だ。繁栄と安定を表す意味があったはずである。
男は背筋をぴんと伸ばして、優雅とも言える足取りで入ってきた。
「あなた方は、デネブルを倒したお二人ですね。アントニー・フェルデス・ブランバッシュ殿に、ウィルトン・シェザード殿。ご領主様がお待ちです。お迎えにあがりました」
ウィルトンはすぐには返事をせず、チーズとパンを乗せた皿を手にしたまま立っていた。男を見つめながら、パンを手に取り、
「あぁ、悪いがこれを食うまで待ってくれ」
と言った。
◆
ウィルトンとアントニーは、立派な四頭立ての馬車に乗せられた。迎えに来た男は御者であり、二人の英雄のために扉を開けてくれた。二人が座席に座ったのを見計らってから、御者も馬車の前にある台座に座ると、馬に一鞭入れた。馬車は走り出す。
御者は言った。服もお部屋もこちらでご用意します。そのままで馬車にお乗りください、と。
それでウィルトンは、よれよれの田舎くさい普段着のまま、貴族の馬車に乗ったのだ。
「なんて立派な馬車なんだ。こんな馬車に乗ったのは初めてだぞ」
座席は黒革張りで座り心地が良い。馬車自体も、しっかりとした高級木材による上質な造りなのは、すぐにでも見て取れた。
「古王国時代の物よりも、格段に良くなりましたね」
窓には透明な硝子(ガラス)がはめ込まれている。さらに、精緻に作られたレースのカーテンが窓には掛かっていた。馬車は漆黒で艶があり、カーテンも黒い絹糸で編まれていた。蜘蛛の糸のように細い糸が、繊細な模様を描き出している。
「そうか。前はどうだったんだ?」
「乗り心地が違いますね。きっと魔術により補強と補整が為されているのでしょう。それだけではなく、職人の技術も向上しているようです。様々に、ね」
アントニーはそう言って、カーテンと座席を指した。
街の中は平らな道が続くわけではなく、小高い丘のような場所もある。丘には緑の木々と建物が張り付くように並ぶ。窓からの明かりも見えた。
煙突からは煙が昇り、食事の支度をするいい匂いが漂ってくる。庶民の暮らしぶりは、田舎と都市で変わらない面もあるのだなとウィルトンは思う。
「オリリエ……あいつ今頃どうしているかな」
「妹さんが心配ですか?」
「心配はしちゃいない。あいつはあらゆる意味で強い女だ。助けてくれる人たちもいる。だけどちょっとな、郷愁にかられたとでもいうかな」
「彼女は素晴らしいご婦人です」
「そう思うか? あんなお転婆だけどな」
「とても勇敢で素晴らしいですよ。さすがはあなたの妹です」
「そ、そうか」
ウィルトンは照れ隠しに横を向いた。黒のレース越しに通り過ぎてゆく景色が見える。徐々に、壮麗な門構えの屋敷が並ぶ通りに入っていった。
「すげえな。お屋敷通りってわけだ」
「ここは、領主に仕える貴族や、豪商の暮らす場所です。絵画や彫刻や音楽、または演劇や詩によって名を成した者たちも暮らしています」
「へえ、すげえな。芸術家もいるのか!」
「ご領主のお屋敷にもたくさん、そのような芸術作品がありますよ」
「へえ。お貴族様のご覧になるものともなれば、きっと庶民の見聞きするものとは違うんだろうな」
「私はどちらも好きですよ。ただ、庶民の好む物に描かれる貴族は、往々にして理想的過ぎるのですよね」
「現実とは違うと?」
「ええ、かなり」
「そうか。でもお前はその理想的な貴族そのものだよ。少なくとも俺とオリリエにとっては間違いなくそうだな」
「ありがとうございます。嬉しいですよ、あなたにそう言ってもらえて」
アントニーは微笑む。どこか哀しげに見える笑みだ。
ここでウィルトンは、宿の主人から銀貨二枚で聞いた話をした。アンタラスなる老貴族の件だ。
「アンタラス……。ああ、アンタラス家のことならば覚えていますよ。確かに古王国の貴族でした」
「覚えていたか、さすがだな」
「デネブルに滅ぼされたと思っていましたが、生き残りがいたのですね」
「お前のことも、ヴァンパイアにはしても殺しはしなかったな」
「そうですね。何故なのかは今でも分かりませんが」
二人の間に沈黙が流れた。
「誰でも、貴族の責務を背負い続ければああなってしまうんだろうか」
「ええ、おそらくは」
お前もそうなるのか。そう言おうとしたが言えなかった。
「俺はな、お前に再び貴族になって欲しいんだ。名実ともに、だ。だけどそれがお前の負担になるのなら……」
「あなたの言うとおり、用心棒だけやっていられればいいのですがね」
「そうだな」
「それに故郷の村に残してきた物も気になります。あそこは、長い間ずっと私の住まいでしたから」
その住まいにはロランもいて共に過ごした。今は、ロランを宿の部屋に残してきた。
宿の部屋には小さな湯船があり、備え付けの暖炉で湯を沸かせるようになっていた。
ロランは今頃、自分で湯を入れて体を洗っているはずである。流れる水でなければ、ヴァンパイアが漬かっても害はないのだが、乾燥していてまだ肌寒い季節には、湯で濡らした布で身体を拭くだけで充分だと思う者は、この新諸国の時代にも、庶民だけでなく貴族にもいる。
古王国時代には、庶民は川で水を浴びるか、沸かした湯をバケツに入れて、布で身体を拭いて、頭だけを洗っていた。
人の多い街中には、当時から公衆浴場もあったが、それは街の庶民の住まいは手狭であるため、湯を沸かして身体を手入れ出来る場が無かったためである。
貴族の屋敷には、家人の各部屋に湯船が備え付けられている場合もあるが、大抵は香料を含ませた水か湯で全身を拭き、頭部を洗うのみで済ませていた。
「今は良い時代になりました。公衆浴場も、昔より格段に広々として快適になりましたね」
「いつかじっくりと古王国の話を聞かせてくれ」
「そうですね、そのうちに」
話しているうちに領主の屋敷に着いた。御者はうやうやしく馬車の扉を開けて、二人が下りるのを待っていた。
続く