HSPの幸福と生存報告
こんにちは。
お久しぶりです。
片野雄大です。
noteなので、読んでる人も限定されるでしょうし
別にアーティストぶるわけでもなく、カッコつけるでもなく人間味たっぷりで書きたいことを書いていきたい。
どうも書きたいこと書く太郎です。
現在、休職中でありまして、本当に強く
強く、引きこもっております。
人に会うでもなく、外に出るでもなく、ただ引きこもっております。
7月の中旬あたりから休職していたわけですから約1ヵ月半ですか、家から出ずに何をしていたか。
まあコロナにもかかったんで1ヶ月くらいか、
これはもうね、ずーーーっと家で映画を見てました。
ずーーーっと曲作ってました。
ずーーーっとジャンプ読んでました。
おもんないのでこの話は終わります。
このnoteは二度と書かないとか書きたくなったら書くとか書かんとか前に言ったような気がするんですけど、
まあ現状というか、近況報告がてらなんか書こうかなと思い筆を取った次第です。
まず、色々ありましたね、数ヶ月前から。
本当に色んな人に出会って色んな体験をさせていただきました。
そして、今までの人生が一変したとか環境が変わったみたいなミラクルが起きたかというと、起きておりません!!!!!!!
本当になぜか分からないんですが、ミラクル、別に起きてません!!!!!
でも、7/9と7/10がミラクルみたいな日だったので、それでいいんじゃないですかね!!!!!!
いいんですかね?わかりません。
まあ簡単に言うとその後いかが?また孤独に引きこもってます、というだけのお話です。
でも人生っぽい、というのはこういうことなんでしょうか。
ただ闇雲に、ということもなく、ただ安寧に、ということもなく、
死にそうな時と生きそうな時のギリギリのところを一本綱の上を歩いている感覚のまま今日まで来ております。
でも人生っぽい、というのはこういうことなんでしょうか。
未だ、分からぬ。
人生とは、いかに。
幸福、と言うものをなんとなく想像する最近です。
これは以前の記事でも話したんですが、幸福とは結局、自分がどう思うか、ということのみだと思うんです。
しかしながら、その幸福の形が人それぞれでございますので、幸福の形は人それぞれ違うよねっつー話です。
簡単な話を長々と説明しました。
すいません。要約できない太郎です。
では、わたくしの幸福とは一体どんな形なんでしょうか、という壁にぶち当たっているのです。現在。
めっちゃつまらない話をしますけど、
最近、芸能人の方が自らの性的嗜好を自らの妻に話し、離婚し、
「人生のパートナー」という形をとることにした。
という記事を読みました。
りゅうちぇなんとかさんとぺなんとかさんの話です。
これに対して批判的な意見もあるんだぞ、という記事も読みました。知らない人はググってください。
めちゃくちゃ個人的な意見を言います。他の人がどう思うかは知りませんが、
僕はこう言った内容を記事にすること自体がまあまあナンセンスだと思うし、それで外野がワーワー騒いでるのもくだらないの極地であると思うのです。
各々が幸福の形を模索し、落とし所を決めてるのなら、それが誰かの未来にどんな影響を及ぼしても自己責任でしょうし、
「子どもが可哀想」という意見すら、「お前未来視できるんかい」という言葉を返したい。
例えば「自分、同性愛に偏見ないです」っていう人は多くいますが、大いに結構だと思うんですが、この言葉の表す本質は、
まだまだ偏見が根強い文化がこの国に存在することと、偏見はないけど興味はあるという人も多くいるゾ、ということを表しているんじゃねーかな、と思うんですね。
本当に偏見がないのなら、同性愛でも異性愛でもどっちでもいいしどうでもいい、んじゃないでしょうか。
香川照之さんの最近のスキャンダル然り、大人でしょう、他人の色恋沙汰は各々方で勝手に対処できよう。
外野が喧々諤々言うべきことではないはずです。
論点がズレてきてますが、何が言いたいかっつーと、人間は本来、自らの幸福は自らのみで追うべきなのではないのかっつーことなんです。
ほいだらね、自己矛盾ですよ。
僕が信条としている、他人の幸せを願い続ける行為や、自らの幸せを運命に委ねるという行為、自体に矛盾が生まれる訳ですね。
なぜならそれは自分の力で幸福を勝ち取りにいってないから。
最近はそれでとても苦悩しております。
自分の幸せを自分で構築するべき、という、ものごっつ当たり前のことを最近ようやく実感してきておりまして、頭が大混乱な訳でございます。
この話にも背景がございまして、
自殺をするかどうか、みたいな話が以前あったでしょ?まあ知らん人は恥ずかしいんで読み流してほしいんですけど、
簡単に言うと、自分軸で生きていく方法を知ったからこその苦悩なんですね。
他人や社会に委ねる自分の幸福ではなく、自分自身の幸福とはなんぞや、ということを考え始めたんです。
そしたら他人のために生きてる場合じゃなくね!???!!!!?!!と思い始めたんですね。
いや、言いたいことは分かりますよ。ええ。ええ。
みんな当たり前にやっていることですよね。
でもね、出来てないんですよ、そんな当たり前がね。僕みたいなポンコツ人間は。いわゆる「当たり前」っつーのがね。
いいですか、またくだらない話をしますけれども。
ちなみにこの話は受け売りなんですが、
精神的弱者というものは確実に、数十年前よりも増えているでしょうね、という話です。
これは社会的な話ではなく医学的とか生物学的な論点なんですが、
生物全般の話にもなりますが、人間も、ひいては昆虫や小動物でさえも、いわゆる生物的に弱い者は子どものうちに死ぬ、というシステムが確実に存在するんです。
例えばネズミは1度の出産で6〜7匹産みます。
これは"何匹かは子どものうちに死ぬ"からです。
小動物であれば当然ですね。食べられてしまうリスクもありますから。
人間も同じだと思うんです。
一定数、弱者が存在すると思うんですね。
これは食べられるからとかではなく必然的に存在してしまうって話です。
例えば僕の場合、小児喘息を患っておりまして、0〜3才までで7回入院しています。
簡単に言うとひと昔前であれば死ぬはずだった子ども、なんですね。
医療の発展というものはそれほど偉大で、僕は死なずに済んだんです。
恐らく数十年前に比べて現代では、そういった人たちが多くいるんじゃないでしょうか。
幸いにも死なずに済んだこと、これは命を大事にすべきという結論にも至ることはできるんですが、
別の角度で言うと、こういったいわゆる"弱者"として生きている人たちが一定数いるにも関わらず
その受け皿、受け止める社会体勢までは整っていないんじゃねーかっつー話です。
変な話、HSPという言葉があります。まあ僕もHSPというやつに分類されちゃうんですよね、嫌だけど。
HSPとは、ハイリーセンシティブパーソン
感受性が強すぎて傷つきやすい人、ということですね。
精神疾患の人はもちろん含まれますが、感受性が強くて傷つきやすい人、であればHSPって言っていいらしいんですよ。
なんかね、先に「HSPですよー!」って言っとけば気を使ってもらえる感があって僕はすごい嫌いな言葉なんですけど、まあ僕もHSPなんでしょうね。
カーッッッ!!!!!
でもまあ僕は別に同情を引きたい訳でもなく、助けてー!という話でもなく、気を使ってもらいたいわけでもないです。
ただ単に生きづらいよねー!アゲー!というだけの話です。
偏見や差別も大いにありますし、逆に気を使われすぎて疲れるよね〜もあるし、「当たり前」を当たり前に出来なきゃいけないの、キツイよねー!アゲー!っていうだけの話です。
ほんで僕は僕自身が"弱者"っぽいっつー自覚があって、その自覚しなきゃいけないのもしんどい、と。
本当にこれを盾にみんな気を使ってねー!って言いたいわけじゃなくね、生きづれえ世の中だ!!!カーッッッ!!って言っているだけです。
ただの文句垂れ流し野郎です。
まあほんでそういう自覚が、自分の幸福とは、という苦悩に結びついております、というだけの話なんですけどね。
あと、最近で言うと障害者手帳をもらうことになりました。カーッッッ!!!!!!!
「生きづらいというのは、優しい証拠だよ」という祖母の言葉を信じて今日まで生きてきております。片野は。
ほんでまあ、それならばこれからはどのように生きるのか、ということも考えなければなりません。
ということを考えながら生きております。
考えながら引きこもっております。
結論が出るにはもう少しだけお時間をいただくかもしれませんが、どうかお気軽に片野、最近何してるー?!ってお声かけください。
引きこもってます。
自発的に外に出ないから、誰にも誘われないんだぜ、ということも最近なんとなく分かってきました…😢
というわけでございます。
2日後にライブがありますね。
誰か久しぶりに外に出る片野の顔を見にこようという物好きな方がいたら遊びにきてください。
片野、超頑張るので。よろしくお願いします。
それ以降の人生は今のところ白紙です。
まだ白紙です。
早く結論出せよ、おい!!!!!
白紙です。