コミュニケーションと言語
こんにちは。カトレナです。
大学の授業みたいなタイトルですが(笑)
コミュニケーションが可能になる瞬間。
言語との作用。
ちょっと寄り道しながら私の気持ちを届けたいと思います。
”コミュニケーション”
共通言語がないときにこそコミュニケーション能力が試される時だと最近思うことがあります。
現在滞在しているシドニーにも全く英語も喋れない人はたくさんいるわけです。
7カ月前は私もその一人にカウントされていたと思いますが、、、
今私はクルーズ船とホテルで働いています。
(まったく喋れなかったころからの経緯はまた機会があれば投稿します)
オーストラリア人もいますが観光客もたくさんいる場所で働いています。
この二つの職場において最近感じることは、
本当に英語力ゼロでやってくるお客さんに対しての、言語を超えるコミュニケーション能力です。
自分の全く知らない言語を話す人と話したことはありますか?
例えば、クルーズ船にやってきた中国人。
同僚のイギリス人は全く理解できず、私に助けを求めました。
(私はその時のシフト唯一のアジア人で、中国語は全く喋れないけど、ヨーロッパだと近くの国は似た単語を使うことがあったりするから、何となく私の方が理解できる可能性があると考えたのではないかと。)
本当に何を言っているのかわからないけど、ジェスチャーによる一生懸命伝えようとする姿勢で、最終的には彼らの要求を理解して、こたえることができました。
また、ホテルではとにかくイタリア語でめちゃくちゃ喋ってくるおばあちゃんが滞在しています。
彼女は英語が何も喋れず、周りのスタッフはみんな彼女の接客を無意識に避けているような気がして、とりあえず頑張って受け答えしてました。
地図を広げてたから道案内と説明をどうにかしてわかってもらえるようにしてたら「intelligente(賢いね)!」と褒めていただき、何もしゃべれないのに次の質問の時にも何人もいるフロントスタッフの中からご指名をいただくようになりました(笑)
ここ2、3カ月で分かったことは、そういう人たちと話せる人と話せない人がいるということです。
正確に言うと話してはいないので、コミュニケーションができるかどうかというところでしょうか。
ここでのコミュニケーション力というのは、人見知りしないとか、人と仲良くなるのがうまいとかそういうのじゃないんです。
相手の要求、心をどれだけ読むことができるか。
それこそが本当のコミュニケーション力だと私は思います。相手を分かろうとしない限り、理解することはできません。
実はこれについて考え始めたのは去年ゼミ合宿でタイに行ったのがきっかけです。
タイの学生と交流する機会があり、彼らは日本語を勉強していたけどもちろんペラペラという訳ではなく、彼らが言いたいことが何なのか、相手のことを理解しようとして相手の立場に立って考えることの大切さを実感しました。
以降、海外の人との交流や言語というものに興味を持って、もっと広い世界でたくさんの人とコミュニケーションをしたいと考え現在ここにきているわけです。
伝える気持ち
去年考えていたこの”コミュニケーション能力”というものを、より深く考えることのできる環境に身を置くことができているわけですが、
これはただ自分が聞こうとする姿勢を見せるだけではなく、話し手も伝えようとする強い意志がなければ成り立たないと考えます。
上記に挙げた通り私の仕事では様々な国籍の人と関わる機会があります。
彼らが英語を喋れても、発音が違いすぎてよくわからないことが良くあるんです。特に電話での会話は最悪です(笑)
一度聞きなおした時、何度も同じことをめちゃくちゃ速いスピードで言い直すだけの人と、丁寧に説明してくれる人がいます。
前者との会話はもはや会話ではなく、私は単純に聞こえなくて、言っている意味が分からなかっただけなのに、最終的にキレられて電話を切られたりします。
後者の場合は向こうも丁寧に繰り返してくれるので、たとえ電波が悪くてもだいたいの場合は解決します。
この例の前者は、お互いの言語のわからないイタリア人のおばあちゃんよりもコミュニケーションができないと感じます。
私の結論としては、聞く側だけでなく伝える側も相手のことを理解しようとしない限りコミュニケーションは成立しないと考えたわけです。
私は留学前の3年間アカペラサークルに入っていてました。
アカペラって微妙なハーモニーやリズムがあったりして、本当にバンド内全員が共通の意識を持たないと成立しないんです。
もちろんそれだけできれいな演奏にはなりますが、心に響く演奏は、さらに大きな気持ちを込めてその気持ちを誰かに届けようとする姿勢が見えるんです。
音楽で言えば自分の好きなアーティストの曲やライブ。
そういうのも彼らの強い思いによる共感によって思いが伝わる”コミュニケーション”の一種なのかなと思ったりします。
人見知り
少し話がそれますが、、、
私は人見知りしたりしなかったりする人間です。
というのも、どうしても人間だから話しやすい人と話しにくい人がいるんですよね、、、
じゃあなぜ話しやすい、話しにくいと思うのか?
お互いの警戒心だったり、何を話していいのかわからなかったり、興味をそそられなかったり、、、
理由は100人いれば100通り。
上記の通りコミュニケーションはどちらか一方だけでは成り立たず、お互いが自分の扉を開いて初めて成り立つものだと思います。
要は人見知りというのは存在はしますが、極度の警戒心だったり、人からどう思われるかだったり、とにかく自分の扉を開くまで、または相手の扉を開かせるまでの期間が人によって違うだけだと思っています。
私はこっちに来てから様々な人と会う中で前よりも人見知りをしていたと思うんです。
それは自分自身が扉を閉めていたからだと思います。
理由は自分への自信がなかったから。英語への自信。
そこから英語ができないことで、相手に伝わらなかったらどうしようという恐怖。
そこで話すのをためらっていたら、バイトでも後から入ってきたスタッフの方が早く職場に馴染んでたりしました。
せっかくオーストラリアにいて、ここでしか話すことのできない人達なのに、自信ないことぐらいで人見知りしてたら本当にもったいない。何やってんだよって思いますよね。でもそれが私でした。
英語の勉強(座学)をしましたが、もはやみんなと話すことが自分の一番の勉強法であると自分自身に言い聞かせ、自分から相手に話しかけ興味を持ってみたり、ミスを恐れずとにかく話してみたり。とりあえずトライの毎日が続いています。
私の人見知りは完全に治ったわけではなくて、まだネイティブや英語がペラペラの人と話すことへの恐怖はあります。でも毎日のリハビリ(?)の成果もあり、英語環境の中でも自分を出すことを恐れず自分の扉を開くことを心掛けているところです。
自信はなくても少しづつ人との距離は近づけることができます。
何もしないで人見知りをなくすのは難しいと思います。自分の扉を閉めている原因は何なのか。そのカギを見つけることで、自分の扉を開け、さらに相手の鍵も見つけることができれば、より多くの人とコミュニケーションが可能になっていくのだと思います。
共通言語
クルーズ船の中国人も、イタリア人のおばあちゃんも残念ながら深い話をすることはできません。
私の場合ある程度英語の会話ができて、仕事もできるようになった。
けどこれは逆に言うと英語力がなかった5~7カ月前の自分からすると目標であり半分夢みたいなものでした。
私はできないながらも自分自身で英語環境に飛び込み毎日滝に打たれ続けることで、ここまではこじつけることができました。
今思うと英語というのはコミュニケーションを活性化させる一つのツールであり、そこのレベルに応じてコミュニケーションのレベルも上がっていくのだと思います。
英語を学んでよかったことは、様々な国の人とのコミュニケーションの機会が増えたこと。それによってさまざまな価値観を知れたし、自分の視野を広げるのにとても役に立ったと思っています。
ただ何回も言うようですが一番に大事だったのは気持ちですね(笑)その人たちをもっと知りたいという思いが私の英語力の向上になってたのかなぁなんて。
きっとこの世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う-福笑い/高橋優
この通り(笑)
母国語
ただ一つ、深い話というのはどうしてもさらなる言語力が必要となるわけです。
英語をどれだけ学んでも(まぁまだ勉強途中ですけど)、日本語にはかなわないなぁって、おそらく外国語を学んでいる最中の人はみんな思うことじゃないかと思います。
アメリカンコメディのジョークとか意味わかんないし、アメリカ人からしたら日本のお笑いも意味わからないだろうし。バックグラウンドとか生活とかいろいろ違うからね。
本当に微妙なニュアンスで言いたいことは日本語でしか言えなかったり、日本語にすることで自分の気持ちの細かいところまで伝えることができると思うんです。
逆に言えば深いところまで理解できてしまうからこそ、互いを理解しようとする気持ちによっては最高、最悪のコミュニケーションが出来上がるはずです。
このnoteも日本語で書いているのは、やっぱりこれがありのままの私で、ほんとのありのままを自分の言葉で残したいからです。
ここから私の伝えたい!っていう気持ちと、読んでくれたあなたが私を理解しようとしてくださったならば、そんな嬉しいことはありません。
ここがコミュニケーションの場となってくれたら幸いです。
ご覧いただきありがとうございました!