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平和のためにできること

 人それぞれ打ち込むものがある。
 仕事、趣味、推し、ペット、恋愛、旅行、note…それはないか。
 誰しも打ち込んでいるものには、心を奪われる感動と体験があり、そこで得た自信が、自分を支えてくれることだろう。いいことじゃないか。

 だが問題もある。
 過剰に得意になってしまい、他を見下してしまい、自分の独断の判断で大失敗をしてしまうことだ。
 以下のyoutubeチャンネルは、山で実際に起こった事故を検証している。山を舐めた素人もいるし、不測の事態もあるが、目立つのはベテラン登山家の過信による事故だ。
生きて山から帰るには【山岳遭難解説】

 自然に入って事故を起こせば、生死をさまようことになりかねない。
 ベテランだからと言って舐めてはいけないし、調子にのってはいけない。しっかりと聞かないといけない。でもこの匙加減の難しさが微妙だ。
 自分より格下の人の話を聞いても意味は薄い。でも地元の人の意見は貴重だ。伝聞は間違いが混じる。
 モーゼは何故、砂漠を何年も彷徨う羽目になったのか、それはエジプトの支配から逃れたのだ、というのは一般論である。見方をかえれば「神の啓示を受けられる場所はどこですか?」とローカルの人に聞かなかったからとも言える。「そらあんた、こっちでねぇべ。あっちの山を右に曲がって、谷二つ渡ったとこの、雲がいっつもかかってる山のことだべ」と普通に教えてくれたかもしれない。
 いくら旅慣れた人でも、神の啓示を受けられる場所を、あてずっぽうでは見つけられまい。

 私たちが望む社会はなんだろうか。いや私個人は。
 私たち=世界の平和
 私個人=若い女性とのラッキースケベ

 待ってください!話を聞いてください。閉じないでください。これを組み合わせることによって、よりよい社会が来るという話です。
 実証した方がいます。この記事だ。

 都会の街角で、「世界平和は欲しいか」と聞いて、「ではそのためにおれの顔に座ってくれないか」とお願いする。結構、うまくいく。
 何が言いたいのか。
 この実行者の発言の引用である。

「私は相手が望むかどうかを聞いただけだ」

http://labaq.com/archives/51960390.html

 別段関係のないものが取引材料にあがっていても、望むかどうかを聞かれた時、人はそのことの得難さから望む、と答える。そして、このアピールによって社会が良くなることを信じる。
 実行者は、そのようにしたというのである。女性の心情が幼かったのもあるかも知れないが、計画的ラッキースケベ犯である。うまくやっている。押し付けたり交渉するのではなく、望むかと聞く。成功率を上げるために必要なことはいじけたり脅したり、暴力に訴えないことだ。

 人に聞かないといけない。得意な気分になるだけではいけない。

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