バージェスの頁の終わりに
むかしむかし、世界がまだ大きな水玉だった時のお話です。
空気は毒を含み、まだいきものたちが母の揺籠を出ていなかった時。
北極にほどちかい、浅い海に二匹のいきものが住んでいました。いきものは平たい白魚のような見た目で、つのが二本あり、頭から爪先までのひらひらとした鰭を持っています。
二人は名前を、ハイコウイクティスとグラシレンスといいました。グラシレンスは仲間内でも特に美しいことで有名で、つのは二本とも均等に綺麗に生え揃い、その体は白く艶やかで陽の光を七色に反射して輝きます。対してハイコウイクティスはつのがなく、身体に赤い模様がありほかの人たちと違うことから、よく仲間はずれにされていました。しかしグラシレンスはそんなハイコウイクティスと一緒に居ることが好きでした。
二人は兄弟でも恋人でもありませんでしたが、二人で一緒に、少しだけ日の届く浅瀬の岩の割れ目に住んでいました。
ふたりは稚貝をいくつか並べたくらいの大きさしかなかったため、大きな生き物たちの格好の餌でした そのため二人は、遊んでいる時以外は、勤勉に二人のすみかを大きく強く、そして美しくするために働いていました
ある晩にハイコウイクティスが、近所の海底に大きないきものの死骸が沈んでいるところを見つけました。ハイコウイクティスはその生き物が残した外骨格を、自分の持てるだけ持って二人の住処に帰りました。
「グランス、今日は大収穫だったよ。家に使える素材を手に入れたんだ。あの団扇のような大きな生き物はきっとワプティアだね 家には入らないけど、出入り口につけてサンルーフにしよう。きっと素敵な玄関になるよ」
「おかえりなさいハイク。まあなんて立派な外骨格かしら。ワプティアには申し訳ないけど おうちの壁を強くするのに使わせてもらいましょうか。私は今日、仲間たちの街に出て行って、家事や歌うたいのお手伝いをして、プランクトンと海藻を少しずつもらってきたわ。これをお夕飯にしましょうか。」
「プランクトン漁の男のところに行ってきたのかい?君は目立つのだから、あまりああいうところには行かない方がいいよ」
「あなたが働いているのに私だけ何もしないんじゃ、目覚めが悪いわ 大したことはしてないし、それにあの人たち本当はとっても良い人なの。だから心配しないで。」
二人は岩間の天窓から月の光が差す 二人のお手製のダイニングで 夕食を楽しんだり 今日あったこと今日あった人のこと 二人がたった一日離れ離れになっていた間の大冒険の話をし合っているのでした
「それでハイク、今日はどんな遊びをしようか」
「そうだな、今日は海も静かだし、大きな生き物はみんな眠っているだろうから、あの月を目指して、海面の方に出て行ってみよう」
「あら。でも海の外は 毒の霧に覆われていて、私たちがそこから顔を出すと、とたんに息ができなくなって、苦しくなって頭が真っ白になって死んでしまうってお父さんもお母さんもみんな言ってたわ。」
「大丈夫、近くに行ってみるだけさ。少しの危険がないと冒険は面白くならないだろう」
「あなたは興味があることに対してはとても勇敢だものね。」
「僕らの命はとても儚い。いつどこで誰に食われるかもわからない。だから僕は今できることは、全部やっておきたいんだ。何かをやり残して死ぬのは嫌だからね。それにこんな静かな夜は ぜひとも君と一緒にいたいんだ。」
「ふふ あなたのその話はもう、この星が生まれてから今に至るまで起こった津波の数より たくさん聞いたわ。いいわ、私もついて行きましょうか」
「僕の冒険に付き合ってくれるのは君しかいないからね。夕飯の片づけをして、戸締りをしたらすぐに出ようか。」
彼らは言ったとうりに少しばかりの家事を終えてから、岩屋を後にしました。そして生き物たちが寝静まった夜、街の明かりも 何も見えぬ真っ暗な闇の中、ただひたすらに頭上に浮かぶ月を目指して、二人で鰭を合わせて、身を寄せ合うように仲良く、上へ上へと登って行きました。
冒険はグランスが思っていたほど危険な道のりではありませんでした。 ただ向かう途中で 海底に大きなアノマロカリスが その大きな羽をもたげて休んでいるのを見たときは、二人とも大きく肝を冷やして、できるだけ息をひそめて、水を荒らさないよう 静かに その上を通り過ぎました。アノマロカリスというのはとても獰猛で、海で一番大きくて、グランスやハイクのような小さな生き物をその触手で狩り取って一飲みしてしまう、恐ろしいいきものなのです。
そうして彼の小さな小さな体を上下にはためかせながら泳ぎきり、遂に二人は海面まで到着しました。いつもは遠くから見ていた海面ですが、目の前にあるとその大きく広い天井は、 波と一緒に三角形だか菱形だかの光をゆらめかせているのでした。
「まあハイクとっても綺麗ね」
「ああグランス、これは僕らが見つけた宝物だね、 それに君、 君は太陽の光より月の光の方がよっぽど君のことを美しくさせるようだね」
ハイクの言うとうり、彼女の太陽のもとで七色に輝く白く美しい体は、月の光の下だと一層青白く、艶かしく、まるでうちたての石英のように、まるで水底の水銀のように キラキラと輝いて見えるのでした。
そういうとグラシレンスは、白い体の目の横あたりを 少しだけ紅潮させるのでした。
「そんな恥ずかしいことを直接言うのはハイク、あなただけの様なものよ」
「そんなことを言ったって君、僕は 見たこと感じたこと、すべて君に伝えないと気が収まらないんだ 君自身の美しさを、どうしても君に伝えたかったんだよ。」
「ふふふ」
と彼女は少しだけ嬉しそうでした。
「あなたが私に何の忌憚もなく話しかけてくれるところに 私はいつも救われているのよ」
そう聞くとハイクは同じように少し 笑って返しました
「君がそういうの、僕は この星が生まれてから今に至るまで あそこの火山が噴火した数より多く聞いたよ。まだ僕はそのことに、君のような人がずっと僕と一緒にいてくれてるだけの価値があるとは思えていないけどね。」
グラシレンスは、今度は少し悲しそうにハイコウイクティスに笑いかけるのでした 彼はそれに気付くことなく、少し興奮した様子で話を変えようとしました。
「 ねぇ グランス。少しだけこの海面から顔を出してみないかい」
ハイコウイクティスの突飛な提案に、グランスは目を大きくして、少し怒った様子で答えました。
「ハイク、さっきも言ったでしょう。海の外はとても危険なの。一呼吸するだけで死んでしまうような、そんな毒の空気がいっぱいに詰まっているのよ。自分にもあなたにも、そんな危険な目に合わせられないわ。どうか考え直して?」
「呼吸して死んでしまうのだったら、息を止めていればいいじゃないか。僕らはこの海の中で慎ましく暮らしている。外の世界を少し覗き見ることくらい、少しだけ憧れて見ることぐらい、許されてもいいんじゃないかと思うんだよ。」
グラシレンスは、いつもよりずっと近い空を少し仰ぎ見てから 大きくため息をついて答えました
「まったく、あなたが言っても聞かないことは私はよく知っているからもう諦めました。 でも私、長くは嫌よ。一瞬だけ、一瞬だけだからね。」
「 ありがとうグランス。いつもつき合わせてごめんね。それじゃあ一瞬だけ。 さあグランス、大きく息を吸って、せーので一緒に顔を出そう。準備はいいかい いくよ? せーの」
グラシレンスはまだ少し怒っているようでしたが、それでもハイコウイクティスの掛け声に合わせて、大きく深く息を吸ってから 二人で一緒に海の天井から頭を出すのでした。
ハイコウイクティスが その光景を見てまず覚えた感情は驚きでした 生まれてから一度も 考えたことも想像したことも、ましてや見たこともない景色だったからです。
自分たちを囲う球状の天井には、数千万、数億と針の穴が開いており、そこから光が漏れてキラキラと自分たちに降り注いできます。そして月は、海の下から見るのとは違って ゆらめきも分裂したりもせず 丸く、大きく、ただ悠然と、自分たちのことを見下ろしているのでした。
彼らは息を止めているのではなく 息が止まってしまっているようでした。とうとう耐えきれなくなって二人は海の中に顔を戻しました。彼らにとって永遠のような時間が流れていましたが、おそらくは数秒の間の出来事だったでしょう。
「 ねぇハイク、すごい景色だったわ 海の外があんなになっていたなんて私知らなかった。見たことも想像したこともない景色だったわ。」
とても興奮した様子で、グラシレンスが先に口を開きました
「ああグランス、僕も全く同じことを考えていたよ。全く想像を絶していた。僕は想像力が豊かな方だと思っていたけれど、現実には到底かなわないようだね」
「月って私、いくつもあるものだと思っていたけれど あんなに大きくて丸かったのね。それに あの光る点々は一体何だったのかしら 深海に降る雪と違って まるで自分から光り輝いているようだったわ。誰かが空にたくさんの宝石をばらまいたのかしら」
「グランス、あれはね 遠い昔誰かに聞いたのだけれど、星、というらしいよ。昔何日も何日もこうやって海面から顔を出してあれを観察した人がいてね、その人が言うには あの点の一つ一つが、僕らが住んでいるような海なのだそうだよ。」
「そんな、あんな小さなところには ブランクトンの一匹だって住めはしないわ。」
「あの点は、僕らの住んでいる海よりずーっと大きくて それがずうっとずっと遠くにあるから あんなに小さく見えているそうだよ」
「そんなの、どうしたって信じられないわハイク。私、あの星に行ってみたい。」
「君がそんな突拍子もないことを言うなんてグランス 珍しいね。」
「この目で見てみないと、その話を信用することはできないわ。」
「そうだね、君はそういう人だ。じゃあいつか この海の端っこまで二人で長い長い旅をしよう。きょう海面に来られたみたいに、きっと海の端っこがあの天井につながっていて、 そこからあすこに昇って、あの星にたどり着くことができるんじゃないかな」
「素晴らしい考えだわハイク、必ずそうしましょう。私、とっても楽しみになってきたわ。私、あんなに嫌がっていたけれど やっぱりあなたと今日ここに来れてよかった。」
「ああグランス、無理にして悪かったと思っているけれど、君と今日ここに来られて僕はとても幸せ者だと思ったよ。」
そう言って二人は笑い合って 来た時より少しだけ 互いを近く寄せ合いながら 同じ道を戻っていったのでした。
二人は次の日も勤勉に働いていました。町に出てもいい顔をされないハイコウイクティスは、 昨日と同じように近場と、そしてまだ行ったことのないところに、二人の住処を大きくするための材料を探しにいっていました。
グラシレンスは、いつものように町に働きに出て、みんなが親切にも食糧を与えてくれようとするのを断って、出稼ぎのような真似をしながらその日必要な分だけの食糧を用立てに行くのでした。
ハイコウイクティスが昨日ときっかり同じ時間にすみかに帰ると、グラシレンスの姿がありませんでした。少し仕事が長引いてしまったんだろう。また危険なところに行ったのではないかと心配にはなりましたが、たまにあることでしたので、その日は一人で、昨日の残りで夕食を用意しながら、彼女の帰りをまっていました。
待てども待てども、昨日見た丸い月が頭のてっぺんに来ても、その月が目の端まで下がっても、彼女が帰って来ることはありませんでした。
急に心配になったハイコウイクティスは、こわごわとしながらも町の方へ急いで出かけていきました
そして、街のはずれにある最初に目についた家の戸をたたきました。
コンコン
家の主は眠そうな目をこすりながら戸をあけて出てきました。
「なんだいこんな夜更けに。なんだお前、よく見たらハイコウイクティスじゃないか。こんな時間に何の用だい」
ただでさえよく眠っていたところを叩き起こされて 不機嫌だった家主は、ハイコウイクティスの顔を見るとさらに機嫌を悪くするのでした。
「おじさんすみません。グランスが 家に帰ってこないのです。昼間に彼女の姿を見かけませんでしたか。」
「なに、グランスが帰ってこないだって。あいつはいつだって日が暮れる十分前には、ものずきにも、嬉しそうにお前の家に帰っていくじゃないか。」
「それが今日は月が昇っても帰ってこないんです」
「今朝はいつもどうり、太陽が南中する4時間は前に、この前を通っていたのを見たよ。そのあと俺は観ていない。こんな時間だがグランスがいないとあったら町のものも助けてくれるだろう。もう少し先にいるやつに話を聞いてみるといい。」
「おじさんありがとうございます。そうしてみます。」
ハイコウイクティスは、街の中心にほど近い、彼女がよく出稼ぎに行くという大きな家の戸を叩きました
コンコン
家の主は、家主ではなく使用人でしたが、やはり嫌そうな顔をして 戸の外に出てきました
「誰だと思ったらハイコウイクティス様、珍しいこともあるものです。それで、こんな夜更けにどんな御用でしょうか」
使用人は丁寧な口調でしたが 夜中に尋ねられたからではない、彼自身に対しての嫌悪感を隠し切れていないようでした。それでも彼は怯まず聞きました。
「夜分遅くにすみません グランスが家に帰ってこないんです 今日はお宅に来ていませんでしたか。」
「ああ今日も来ていましたよ。 彼女は働き者だ。いつもどうりいい仕事をして、いつもどうり駄賃を渡したら、今日は帰って行っていきました。ただ、いつもは南中から4時間あとまで働いているけど、今日は一時間早くこの家を出て行きました。どこか行くところがあったようでしたよ」
「そうですか 彼女は行くあてについて何か言っていませんでしたか」
「さあ ただ町のもっと奥のほうに歩いて行くのを見ました。向こうに住んでいる彼らに 聞いてみた方がいいかもしれませんね。ところで、あなたも彼女のようにもっとよく働いたらどうなんですか?」
「 いいえ、僕は この街で嫌われていることをよく分かっていますので」
「そうですね、あなたは嫌われ者だ。それはあなたが私たちと違うからだ。それは仕方のないことだ。ただあの娘だけは、ここに来るといつもあなたのことをよく褒めていました」
「そうですか、それは知りませんでした」
「まったく、あなたは私達からあの娘を奪った自覚を、その責任を、少しは持ってほしいものです」
「そう言われましても、彼女は僕がどう言っても僕の家から出て行こうとしないのです、」
「そういうところのことをいっているのだよ。もう少しあの娘のことを考えてやってもいいものを。」
そう言って使用人は小さなため息をつき、もう話は終わっただろうと言わんばかりにハイコウイクティスを追い出すと、寝ているものを起こさないよう、しかし少しだけ強く戸を閉じてしまいました。
ハイコウイクティスはまた進み始めました。今度は街のはずれにある、漁師たちが集う少し古びた小屋に向かいました。
コンコン
「誰だこんな夜更けに、俺たちはもう漁に出るんだぞ。」
そう荒々しく出てきた漁師は、ハイコウイクティスへの敵意を隠そうとしませんでした。
「なんだ気味が悪い。なんでったってお前がこんなところにいるんだ。帰ってくれないか」
「漁師さん、夜分にすみません。ですがそうもいかないのです。グランスが家に帰ってこないんです。あの子がどこに行ったのか、ご存じないでしょうか。」
グランスがいなくなったと聞くと、出てきた漁師も、中で耳を立てていた漁師も、とたんに慌てているようでした。
「 グランスが帰ってこないだって、お前なんでこんな夜更けまでそれを放っておいたんだ。 今日は働きには来なかったが、町で一番の物知りの家を知らないか、と尋ねてきたぞ。」
「町一番の物知り…どうしたって彼女はそんな人を探していたのでしょう。」
「理由は聞いていないが、場所教えてやったぞ。街のはずれのここから 外に出てもっと ずっと行った所だ。ここから一本道だから迷うことはないだろうと。あの子は礼儀正しくお辞儀してから 教えた方に一人で歩いて行ったよ。」
「そうですか、では僕もそちらに行ってみます。」
「お前はもう少し早く探しに来るべきだった。お前、彼女がお前のことをどれだけ愛しているのか分かっているのか。」
「傾けてくれている分には、気がついているつもりですが。」
「お前はわかっていない、ハイク。こいつらの誰かがお前の悪口を一つでも言ってみろ、あの子はすごい剣幕になって俺たちを嗜めるんだ。俺たちが怯んじまうくらいだぜ。」
「あの彼女が、そんなになって怒るだなんて、想像がつきません。」
「俺たちだって同じだ。あの子はあんなに綺麗なのに、俺たちみてえな荒くれ者にも天使みてえに優しくしてくれる。だがな、お前のこととなると彼女は本気になるんだ。見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにな。」
ハイコウイクティスも、聞いていて少し恥ずかしくなってきました。
「俺たちがお前の模様のことを笑えば「あなたたちは彼の美しさがわからないんだわ、あなたたちよりずっと勇敢で優しくて、そして美しい心を持っているのよ」と、決まって返ってきたもんだ。俺らの中でそう言う奴はもういねえけどな。」
「………そうですか、そうですか…。」
ハイコウイクティスは、初めて聞く彼女の街での振る舞いに頭がいっぱいになりました。
一刻も早く、彼女の顔を見たいと思っていました。
「ありがとうございます。行ってきます」
そう言うとハイコウイクティスは深く、地面に顔がつきそうなほど深く頭を下げ、漁師たちの家の先長く続く一本の道を進んで行きました。
道は少しづつ下って行きます。町は浅瀬にあるので大きな生き物はやってきませんが、深いところはだんだんといきものが増えて、危険な海になっていきます。
彼女に会いたい。昨日のように身を寄せ合って笑いたい。岩陰からひょっこり顔を出して、「迎えに来るのがおそいよ」と頬を膨らませたところを、強く抱きしめてやりたい。
しかし、どんなに岩陰を凝視しても、どんなに目を凝らしても、彼女が現れることのないまま、一軒の家についてしまいました。
コンコン
「すみません」
コンコン
「すみません、物知りさん、人を探しているのです」
少し間をあけて、中から物音がしたかと思うと、老人がゆっくりと出てきました。
「今日は二人も客人が来るなんて珍しい。こんな夜更けになんの用だい、お若いの。」
「すみません、人を探しているのです。若い娘が、こちらに尋ねてきませんでしたか。」
「ああ、ああ、夕刻にきた娘っ子か。名前はグラシレンスと言ったかな。」
「そうです!その娘です。彼女はまだお邪魔していたりしませんか。」
老人は少し声色を落として答えました。
「すまんが…娘っ子は日が暮れる前に帰っていったよ。人が待っているからとね。」
ハイコウイクティスはその言葉を聞いて絶望の淵に落とされました。ここにいないのであれば、彼女は今どこに。
落胆するハイコウイクティスの顔を見て、老人が優しく言いました。
「彼女が話していたのは君のことだったのか。うちで少し休んでいくといい。彼女にした話をしてあげよう」
老人の家は、狭い家の中に本が敷き詰められており、外見よりずっと窮屈でしたが、不思議と居心地がいいとハイコウイクティスは思ったのでした。老人は今日2回目のとっておきだよ、と言ってウミユリの砂糖漬けのお菓子を出してくれました。そして一冊の本を開いて、話し始めました
「彼女は日がかたむいた頃に訪ねてきたんだ。美しい娘子だった。そして、ワシに「星にいく方法はないか」と、尋ねたんじゃ」
ハイコウイクティスは大きくまばたきをしました。そして、体に海水が染み渡って行くように、じんわりと彼女の考えを理解していきました。
「ワシはその方法を知らなかったが、星については話せることがあったから、君と同じようにこうして招いて、君に出したのと同じ菓子を振る舞ったよ。」
「それで、彼女にどんな話をしたんですか」
「そうさな…まず、星は遠く遠くにある。ワシらみたいな小さいのがどれだけ椎を折ったところで、決してたどり着けない。その前に、この星は大きな気泡のように丸い形をしている。ずっと行くと同じところに戻ってきてしまうんじゃな。だからどれだけ遠くへ行こうとも、あすこにたどり着くことはないんじゃ。」
ハイコウイクティスは、彼女とした約束がかなえられないのだと気が付き、酷く悲しくなりました。その顔を見た老人が優しく言いました。」
「彼女も、君と同じ顔をしたよ。約束したんだろう?二人で星に行くと。残念じゃな。
ただ…死んだら天に昇り、星に向かうという話をする者もいるぞ。まあ、もし星にいけるとしたら死んだ時じゃな、と彼女に言ったら、「それでは困る、あの人と一緒にいかなければ意味がないんです。」と、笑って言っていたよ。
ハイコウイクティスは、たまらず涙が溢れてきました。海水より少し塩分濃度の低い水が目からこぼれて、すぐ周りに広がっていきます。早く会いたい、早く会いたいと。
老人が萎びた鰭で、優しく背中をさすってくれました
「君は彼女に愛されているんじゃな、それだけはようわかったよ。」
まあ、星は太陽と一緒でひどく暑く、とてもいられるところじゃないがな、と言って老人は石を転がしたような声でからからと笑いました。それから、星について少し話し込みました。
「おじいさんありがとうございます。僕は彼女を探しにいかなければ」「そうさな若いの。きっと見つかるさ。また来るといい」
老人は来た時と同じように、優しく送り出してくれました。
一度すみかに戻って、日が出た後にまた街に出ました。ひどく邪険に扱われましたが、グランスがいなくなったというとみんな必死になって協力してくれました。
そういえば、きのう長老の家の方にアノマロカリスが泳いでいた、とハイクが聞いたのは少し後になってからのことでした。
―君はどうして僕といるんだい。僕はみにくい赤い模様があってみんなに嫌われているんだよ
―あら、私はその模様大好きよ。だってどこにいても、あなたのことが一眼でわかるんですもの
―そんなことを言うのは君だけだ。僕のことは僕でさえ嫌いなのに、どうして君は
―面白いことを言うわね。そんなの、私たちが太陽の出ている間だけ働いたりするのと、同じくらい当たり前のことなのに。でもそうね、貴方が私と一緒いるのと、きっと同じ理由だと思うわ
ハイクが身体中を岩の擦り傷で切れ切れにしながら長老の家の周りを探すと、ちぎれた鰭を見つけました。少しくたびれてはいたのですが、月光に照らすと螺鈿のようにキラキラと虹色に輝くそれは、間違いなくグランスのものだと、ハイクには一目でわかりました。
声にならない声で泣き、ハイクのちっぽけな体を、深くて大きな悲しみが包みました。一晩中泣いて、身体中の水が海に奪われてしまった時、やっと街の人たちが彼らを見つけました。
町中の人が、グランスの傷ましい死を嘆き悲しんで、ハイクにお悔やみを言いました。 町の漁師なども気性が荒いものは ハイクにつかみかかって暴言を言うものなどもありました。ハイクは何も痛くもありませんでした。心にぽっかりと穴があいてしまったようで、自分が立っているのが座っているのか、浮いているのか沈んでいるのかもわかりませんでした。
バイクはそれから何もすることができませんでした。岩屋の中に彼女の影を探して、一日中そこで転がっているのです。生き物というのは不思議なもので、3日ほどそうしていると、よほど腹が減っていたのか気がつくと外の岩にへばりついている苔を食んでいたのです。
町の人はたいそうハイクを憐れんでいましたが、2人の仲が良いことを知っていたみんなは、 全く仕方がないことだとハイクの好きなようにさせておいてやるのでした。
ある晩、気を失っていたハイクは久しぶりに幸せな夢を見ました。 空で星となったグランスが、ハイクのことを迎えに来てくれる夢です。
夢というのは不思議なもので、みている間は、それが本当に本当のことだとかんぜられるのです。だからこそ、起きた時の苦しみは計り知れないものでした。
「あの日、君はアノマロカリスに食われてしまったんだ。」
「僕が星を見させなければ、君はあんなところに行かなかったのに。」
「僕が星に憧れたばっかりに、憧れさせたばっかりに。」
「ちっぽけな僕が海の外に興味を持ったから、やっぱりバチが当たったんだ」
「ああ神様、罰を与えるなら彼女でなく僕にするべきだった。そうしたら、世界がこんなにも悲しみで包まれることはなかったのに。」
「僕より、彼女の方がよっぽど世界に愛されていたのに、どうして、どうして。」
そう言って何度も何度も何度も、岩に頭を打ちつけました、見ているものがいたならば何を投げ打っても止めるであろうほどに、激しく、痛々しく、何度も何度も。
ふと、ハイクの目に赤い光が入りました。
初めは、夕焼けの光か、自分の血液の混ざったのだと思ったのですが、様子が違うようです。
だんだん、ひどく大きな音と、街の方からであろう悲鳴が聞こえてきました。
窓枠から差し込む赤い光はだんだんと大きくなり、ついに白光して、次の瞬間に大きな大きな音と地響き、そして津波が、一気に岩屋を襲いました。
二人で拵えたサンルーフも、玄関も、調度品も、何もかもが流されてしまいました。ハイクはそこでやっと、岩屋の外に出ました。
海は赤褐色と化し、ひどく濁っていました。街の方も散々で、まだ生きているものの悲鳴がこだましています。
その上、いつかグランスと顔を出した水面。そこには、視界に入りきらないほどたくさんの赤く光る球があったのです。それは、あの時見た星より何億倍も大きいものでした。
いくつかはすでに落ちてきたようで、海の中はまるで太陽がすぐ近くにあるかのように明るく、熱くなっていました。落ちてきたそれに呼応するかのように火山は噴火をし、ひっきりなしに地震が続いています。
あんなに怖かった大きな生き物たちも今や噴石の下。街からの悲鳴も、もう聞こえなくなりました。
ハイクは、終わっていく世界の中で一人だけ胸騒ぎがしていました。残骸となった岩屋を飛び出して、ぐんぐんと水面へ一直線に泳いでいきます。その姿はまるで、一本の白い矢のようでした。だんだんと肺が大きくなり、昇るたびに苦しくなるのですがそれも厭いませんでした。ハイクは、息を大きく吸うのも忘れて水面から顔を出しました。
たくさんの、本当にたくさんの、赤く燃える星が降ってきていました。
あの日針の穴ほどだった星が、今はもう触れるほど近くにあるのです。ハイクは漠然と、自分の背中の模様のようだと思いました。
「グランス!僕に会いにきてくれたんだね!」
ハイクは咄嗟にそう思いました。
布切れとなった友人が、赤熱し輝く大きな星となってこの海に戻ってきたのです!
「僕は君のことを心から愛していた!君は君であったから、ただそれだけだったんだ。同じものを見て笑って、心を動かす君を、僕を正面から見てくれる君を、一緒にただいてくれる君を、心から愛していた!」
酸素という毒を肺が吸い込み、どんどんと脳も視界も白んでいきます。
どおん、どおん、と星が落ちていき、大きな水柱を上げてその周りを沸騰させています。
空も海も、もうどこもかしこも不気味な赤に染まっています。
幾千もの赤い光が、マリンスノーのように降り注いでいるのです。空が、子供が悪いことをした時のように、真っ赤になって怒っているようでした。
しかしハイクの胸は、希望でいっぱいでした。夢が本当になったと、心から喜びました。
中でも一際大きな星が、ハイクの前に降ってきています。
「愛しい僕のグラシレンス、もう絶対に一人にはしないよ。ずっと一緒に居よう。屑が集まってその中に命が生まれるまでよりも長い時間を、時間そのものがなくなってしまうまでを、ずっと二人で過ごそう。」
星はもうすぐそこにあって、表面の割れ目まではっきりと見えます。
赤く赤く輝いて、網膜もとうとう焼けてしまいました。
それでも、だからこそ、彼女が近くにいると感じたのです。
大きな星が、そこにあります。大きな、熱い、大きな、大きな………
その日を境に、地球の生き物はほとんどいなくなってしまいました。
長い長い時間を経て、ここがもっと多くの生命に溢れる楽園になるのは、また別のお話。
しかし、仲良しのハイコウイクティスとグラシレンスは今も、宙に昇った先の星で、二人で一緒に暮らしているのです。
※ヘッダー画像はAdobe fireflyを用いて生成されたイメージ画像です。
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