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歌は何も救わない:『竜とそばかすの姫』のアンバランスさ

Belleの歌はマジで全部名曲

どうも、輿水畏子(こしみず かしこ)です。

今回は、今話題沸騰中(流石に少し落ち着いてきたかな?)な映画である、細田守監督の『竜とそばかすの姫』についての感想です。ですが私の感想、とくに引っかかってる部分は出回ってる記事と大体一致してるので、私が特に気にしているこの作品の「歌」の話、そしてこの作品とミュージカルの比較についてフォーカスします。
ガンガンネタバレして話すため、以下未見の方はお気をつけください。

なお私もこの映画を視聴して二週間ほどが経過しているため、細かい部分に認識の抜けがあるかもしれません。「そんなあやふやな人間が竜そばを語ってんじゃねえよ」という方がいらっしゃったら申し訳ないです。言われたらもっかい劇場まで行きます。

竜そばとミュージカル

というわけでまずは私の竜そばの感想ですが、まあ見てて面白くなかったですね。
前述の通り私は竜そばの楽曲は滅茶苦茶好きで、SpotifyでBelleの曲を何十回とリピートしています。「U」も引き込まれますが、実は真打は「歌よ」の方なんじゃないかと最近思い始めました。

そんなに曲にハマり込めた私でもストーリーはつまらないな……という気持ちにならざるをえませんでした。上映1時間半くらい経った時、私の後ろに座っていた女の子がにいる親に向かって大声で「ねえまだおわんないの?早く帰りたい」と半泣きで話してた時の居た堪れなさはすごかったです。

見終わった後色んな方の感想を見て、「歌と絵はよかった」という言葉をたくさん見てそうだよな〜と頷いていた時、こういう感想を見かけました。

「こんだけ歌と絵が良かったんだからもうミュージカル映画にしちゃえば良かったのに」

なるほど確かに、Belleの曲のパワーをもってミュージカル調の映画になっていたら、楽しい時間がずっと続いて終わるお話になっていたかもしれません(途中の謎の美女と野獣パロディパートについてはミュージカルみたいになってましたが、あのシーンは私の中では本当によくわかんないで終わったので言及はしません)。

この感想を見て、竜そばがミュージカルになっていたらどうなるんだろう、と想いを馳せていた時、私はあることに気づきました。それが今回の感想のタイトルです。

歌は何も救わない

竜とそばかすの姫という作品、基本的に歌で何かが解決したりしないんですよね。

ミュージカルといえば、作中で何かあると「突然歌うじゃん!」と突っ込まれんばかりに歌い出し、その歌の内容がストーリーに絡んでいることがよくあると思います。

『グレイテスト・ショーマン』でいえば、「This is me」を歌えばサーカス団員は強い意志をもって再起しますし、「The other side」を歌った後はフィリップもサーカスの一員になってるどころかアンに惚れてますし、全てを失って不貞腐れてたバーナムさんは「From now on」歌ってから爆速で立ち直り、直前に奥さんに逃げられてたのに5分くらいで奥さんに追いつきます。
(ちなみに私は『グレイテスト・ショーマン』『レ・ミゼラブル』『サウンド・オブ・ミュージック』ぐらいしかミュージカル映画を見たことがないため、ミュージカル映画への造詣はあまり深くありません。多めに見てください。)

一方で、竜そばについては、ミュージカル的な歌の中で進む!という様なことはあまり起きません。一応前述の美女と野獣パートでなんかBelleと竜が歌と共に打ち解けた感は出てましたが、あのシーンはどちらかといえば現実の知くんが、あそこで歌った曲を口ずさんでたことのほうが重要なファクターになります。
最後、Belleが鈴の姿を曝け出し、「はなればなれの君へ」を歌うシーンも、歌のおかげで〈U〉の世界が団結した!みたいな雰囲気が出ています。が、あのシーンは「鈴が恵からの信頼を得る」ことがキモなんですよね。
〈U〉のみんなが鈴を認め、感動して光っていくのは鈴が歌に対する自信を取り戻し、ひいては自立することにも寄与しますが、この作品の最大の問題である「追い詰められている竜」がこれで解決したりする訳ではありません。みんなあれで竜を許そう!ってなってたわけじゃないですよね、多分。

こんな感じで、竜そばという作品において、歌って本当にそのまんま手段としての「歌」でしかない様に感じました。歌がストーリーの根幹に組み込まれているのではなく、だからこそ歌ったから世界が良くなったり、問題が解決したりしない。歌は歌でしかないんですよね。これはミュージカル的な作劇とは流石に相容れないものではないでしょうか。

じゃあ竜そばをミュージカルにするためには、歌で問題が解決する様になればいいのか。これも難しい話だと思います。

そもそも「問題」は解決しない

別に問題が解決しないのは、歌が歌だからとかではないんじゃないでしょか。
それよりも竜そばという作品の根っこ、主題の部分にあると思います。
この作品、「そもそも問題自体ほとんど解決しない」ということを描いているのではないでしょうか。
この点については他の方も感想記事等で指摘されているのを見かけたのですが、竜とそばかすの姫という作品の中では、重大な問題が簡単に解決したりしません。

恵くんは今まで社会福祉から溢れてきたことへの恨みつらみをぶつけます。ラストシーンについても、公的機関は頼れないものである、という扱いを受けます。(これについては公共の福祉等を悪し様に描きすぎてるきらいがあるし、48時間ルールについてはなんか勘違いしてるんじゃないかという描き方だと思いましたが、一方でそういったルールに救われなかった人たちがたくさんいたこともまた事実でしょう)
結局ラストを超えた後も、恵くんは問題に立ち向かおう!という意志を得るだけであって、その後恵くんを取り巻く問題がどうにかなったりはしません。これはある程度意図的に描かれた問題の扱い方だと思います。(なお、恵くんたちへのアフターケア描写が全くないことについて私は恐怖しており、それについては別の記事で書く予定です。)

つまり、歌が何かを解決したりするはずがないんです。残酷な話ですが、現実の問題だって大体はそうでしょう。歌は私たちの力になったり、慰めになったり、繋がりになったり、色んな力になってくれます。でも、歌ったから解決する問題ってなかなかないんです。だって世の中の問題のほとんどは簡単に解決なんてしないんだから。

果たしてこれが本当に細田監督が伝えたかったことなのか、私にはわかりません。ですが、問題を簡単に終わらせず、世に残る問題のままとして描くというのは、見た人たちの心に一石を投じる意味でよく知られている手法だと思います。特に今回扱われた児童と親の間の問題は、現実でも重く根を張るもので、それを軽々しく扱わず問題として伝えることには意義があると思います。

竜とそばかすの姫のアンバランスさ

上述のような構造をしている竜のそばかすの姫は、それゆえにアンバランスさを抱えている様に思います。

それが、脚本と歌&映像のパワーバランスが崩れていることです。
これは本当に多くの方が話されてたんですが、竜そばの楽曲や、楽曲が披露されるシーンの絵作りって本当にかっこよかったり美しかったり、とても豪快なパワーがあるんですよね。つまりそれだけで人の心を揺さぶる力がある。

一方、今回の竜そばの「問題を問題として残す」という脚本は、非常に繊細な力加減が必要なものだと思います。現実の問題を扱い、まだ現実にはたくさん問題が残っているのだ!と知らしめる以上、手放しにハッピーエンドにはもちろんできない。一手に解決する道は自らが閉じてしまっています。

その制約の中でどの様に脚本を描くかが腕の見せ所、作品のキモだと思いますが、あいにく私にはその大筋が響かず、説得力を感じない作品になってしまいました。

何も解決してはくれない歌と、その歌唱シーンが、作中でもっとも説得力を持ってしまった。これこそが、竜そばを見ている時私の中にあった違和感でした。

最後に

ということで、私が竜そばをみて感じたバランスの差について語ってきました。本当に脚本の構成自体は問題がないと思うのですが、個々の展開に全然納得できなかったんですよね。その中で歌に負けちゃった気がして仕方ありません。ただBelleの歌はもっと聴きたい。EGOISTの様な活躍を続けたりしてくれないでしょうか。

次は竜とそばかすの姫のアフターケアについて語りたいと思います。

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