人との出会いこそが人生の全てという時代
コミュニティやつながりという言葉をここ1年で、今まで以上に多く聞くようになったと思います。なぜ、みんなこぞってこういうことを言い出したかなのですが、その理由は説明するまでもなくcovid-19の流行により、きっと多くの人に体感として伝わってきたのではないでしょうか。
「リアルなつながりを分断されたときに
人は気持ちの中で誰と繋がっていられるのか」
この問いがとっても重要になったんだと思います。今までも同じようなことって実はたくさんありました。自然災害もそうですし、個人単位でいうと、倒産やリストラなども含まれるかもしれません。今までのあたりまえが突然あたりまえでなくなる瞬間と人は実は背中合わせで生活をしています。
メメントモリ
「メメントモリ、死を思え」とよく言われますが、現実的にひとは日常の中で、ストイックに明日死ぬかもしれないと思いつづけてはいられません。
スティーブ・ジョブズの残した名言
「If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」
という言葉ですら僕はかなり懐疑的で、もしかしてこれは死を現実的に感じてからのジョブズの言葉なのではないかと思っています。それくらい本来ひとは、死を感じずらい。
そんな中でそれをリアルに感じさせてくれるのが自然災害だったり、突発的な不運です。ただし、それはあくまで個人的な範疇のことであったり、一部の都市限定のことでした。そういう大きな出来事ですら実際にはどこか他人事という空気からは逃れられない。すべてテレビの画面の向こうのこと。そういう印象で生きていた人も多いと思います。
けれど、今回のcovidー19というのは、全世界、全国民が同時期に同じ分断を経験しました。あたりまえが突如あたりまえではなくなり、全員がフラットに同じ経験をしたのです。
そうなったときに何が起こったか
今まであたりまえの日常があたりまえでなくなり、会えてた人に会えなくなり、仕事という用事があるから人にかろうじて会えていた人たちは、用事がないとお声のかからない人になり、自分の存在価値をどこで確かめるのか不安定な社会になりました。
オンラインの情報格差や情報弱者と言われる人たちは特にそれを感じたのではないかと思います。そんなときに、突発的な分断がまったくおこらない世界。いやむしろ最初から分断しているのでそれが分断だと気がつかない世界、それがオンライン上にあったのです。
いや、オンラインとオフラインをわかりやすく分けて伝えていますが、もはやそれすらもなく、あるのはただリアルな世界という、リアルなオンラインとリアルなオフラインを飲み込んだたった一つのリアルな世界です。
だから僕はVRというヴァーチャルという言葉にも違和感を持ちます。もはやヴァーチャルというものは存在しない。一通り地続きの現実の世界です。
たとえば、友達とオンラインゲームでつながったとして、それはヴァーチャルなつながりではなく、それはオンラインゲームでつながる現実です。たとえ一回も顔をあわせていないゲーム上のつながりだったとしても、それはオンライン上のリアルなつながりです。友達すらいない、コミュニティにさえ属さない人にとっては、単なる個人のゲームでしかありません。
見えないものが大切になる時代
見えないものが大切になる時代において、縁は円(お金)以上に強力なものになりました。ひとは人で人の価値を測るというモノサシをもったのです。
誰と繋がるのか
がこれからの大きなポイントになります。それはその後の展開、つまり時間の流れが早くなった今だから余計に重要なのです。誰と繋がって、どのコミュニティに属してどの情報をとって、何を決断して生きていくのか、それがまるまるリアルに、はねかえってきます。
あたりまえですが、不穏なコミュニティは不穏な情報と人にまみまれます。上質なコミュニティには上質な人とモノがあふれます。類は友を呼ぶが可視化され、人のつながりはその後の人生を大きく左右する時代になったのです。ただし、ここでポイントがあります。属するコミュニティはひとつでなくてもいいんです。
たったひとつを選びとらなくていい
昔なら、1つだけ選びなさいが主流だったと思います。たくさんの肩書はダメ
何屋かわからないのはダメ、1つの会社に属しなさい、副業はダメそういう1つの価値観を徹底的に与えられてるひとは、この複数を同時ということができません。けれど、コミュニティにおいては複数同時進行、マルチタスクこそ時代と人の脳の仕組みにあったもっとも賢いやり方で、それこそが現代にはあっていると思います。
コミュニティは人の数だけ趣味の数だけ好奇心の数だけ出会いの数だけ入ってみればいいのです。で、その上で取捨選択していけばいい。なぜこれだけコミュニティの価値を伝えつづけるのか。なぜなら、これからは「コミュニティだけの時代」になるからです。
コミュニティしか存在しない世界
コミュニティの中だけですべてが完結する。すべてとは、生きていくすべてです。
会社も細分化され、仕事も細分化され、個人単位の集まり、個人単位の仕事になって仕事もコミュニティ化します。恋愛も、趣味の活動も、友達も、必要な専門家も、いつも食べに行くお店もすべてがコミュニティ化していくのです。見えないものの可視化はコミュニティによって行われます。だからコミュニティって言葉が嫌なんだとかサロンって言葉がどうもねーとかそんな小さなことなど瑣末でどうでもいいのですw
ひとつでも多く体験し、そのすべてにつながりをもつ。それは今までぼくたちがリアルでやろうとしてきたことそのものではないでしょうか。
今までより広範囲にリーチでき、かつ、そのチャンスの目は広がった。ルーレットでいうとたくさんの目にベットしている状態を作り出せるようになった。ひとつでは成功の角度をあげずらいけれど、いくつもベットしているとどれかがヒットするなんてことも起こります。
やりたいことの実現や、会いたい人と会えること、そんなこともコミュニティで
1番早く起こってきます。今このことを知りたいなぁもコミュニティなら誰かがその時間にその投稿を見てコメントがつきます。リアルならそうはいきません。この翌日に持ち越されるか、数分後に解決するかのスピード感は体感しないとわからないことでしょう。
これは教育機関にも影響を及ぼすと思います。学校にいくくらいならコミュニティに入り実践から学んでいくひと、早くからつながりをもつ人が勝つ時代。学歴なんかどうでもよくなる。もうそんな時代です。
地方格差もなくなり、一つのところに集まらないとできないことなど何一つありません。このことにより、賃金の差も消滅します。地方でもたくさん稼ぐ人がでて
それにより空洞化する地方を減らし地方を再建する道がでてきます。
そして誰とつながるのか
これからは誰と繋がるのかが全てを決める時代。その繋がったひとを選択した答えがその先に答えとして現れてきます。現実は人によって作られる、コミュニティによって作られる。それを持たないひとは、もはやパスポートを持たない旅人のごとくどこかに浮遊するしかないのでしょう。
それもまた一興で、嫌いではないですが、その強がりがどこまで続くのか、それはこの先の未来に答えを委ねるとします。
結論として「人との出会いがすべて」それは今も昔も変わらないのですが、今の時代は出会える数が飛躍的に増えて、判断する基準も増えたことによって、そのチャンスを掴みやすくなった。どんな人であってもマニアックな趣味であっても、そういう人が自分だけじゃないことを知る、そんな優しい世界に近づいていってるのではないかと思います。