【第1回】探しものはなんですか?|地下鉄にも雨は降る|友田とん
私事で恐縮だが、「地下鉄の漏水対策」のことが気になって仕方がない。と言ったところで、いったいそれはなんですかと多くの人は首を傾げるだろう。だが、意識にのぼるかどうかは別として、多くの人は視界に一度は入れたことがあるはずだ。地下鉄の駅構内の天井からぽたぽたと漏れ出した水が地面や通る人を濡らさぬように、ビニールシートで受け止めて、バケツやペットボトルに集めるあの一見その場しのぎの工作物のことを。
地下鉄のホームで、あるいは乗り換えの通路で漏水対策を見かけるたびに、私はすかさずポケットからiPhoneを取り出し、写真を撮り観察する。通りかかった人は、何がそこにあるのかと怪訝そうな顔をしていることもある。なるだけ全貌を一枚の写真に収めるべく、後ろに下がって撮影する。引きの写真だけでは飽き足らず、今度はずっと近づいてみて、漏水を受けるシートや水を流すチューブやポリタンク、それにそれを囲う虎テープや「漏水注意」などといった貼り紙も個別に写真に収める。
だが、漏水対策の存在を思い出してもらえたとしても、それに取り憑かれたように観察している私のことはまだ理解してもらえないかもしれない。だからどうしたという声が聞こえてきそうだ。その考えに私は同意する。なにしろ、私にもまだよくわからないからだ。むしろ、話を聞いた人の方が親身なくらいで、どうにか理解の糸口を探ろうとしてくれたりもする。何度か、
「あぁ、土木とか建築関係のお仕事なんですね」
と変に納得されたことすらある。だが、私は土木の仕事に就いたおぼえなどない。ましてや、建築家でも、地下鉄の専門家でも、研究者でもない。ないないづくしの私は、一都市生活者、一地下鉄利用者にすぎないのである。
なぜこんなに気になるのか。まず何より漏水と漏水対策は一つとして同じものがなく、同じ場所であっても、時により変化している。いつ見ても飽きることがない。なるほどなあ、見事だなあと私は思う。むろん、気にしていない人にとってみれば、どれも同じようにしか見えないだろう。存在すら目に留まらないかもしれない。興味を持った人には一つ一つが違って見えるが、興味のない人には同じものにしか見えない。あるいははなから存在してすらいない。むしろ、一つ一つの違いが見えるということが興味を持つということなのかもしれない。
私にも覚えがある。子供の頃、週末の午後に、父は決まって居間のテレビの前に座り、ゴルフの中継を見ていた。芝生、選手、そしてそれを囲む観客。大きな声を上げるでもなく、解説も抑制が効き、淡々と続いていくその試合は、私には退屈で、同じことが永遠に続いているような気がしたものだ。なぜ父は同じものをずっと飽きもせずに見ていられるのか。やがて、私は中学に上がると、プロ野球の観戦にハマり、夜毎、テレビの前で熱心に野球中継を見るようになった。夕食の支度をする母が後ろから言った。
「同じのを昨日もやってたわよ」
同じものなはずがないのだが、野球に興味のない母には、毎晩同じものが繰り返されているようにしか見えなかったのだ。だが、考えてほしい。興味を持たない者から見て異なるものに見えるほど異なっていたなら、それこそ大事である。昨日の試合と今日の試合とで、たとえば球の大きさや、塁の数、バットの形状などが大きく異なっていたなら……。一度に競技するチームが2つではなく、3つになったなら……。もはやそれは別の競技と考えるべきだろう。スポーツに限らない。たとえばワインもそうだ。しばしば、口に含んだ人が言う。
「いやあ、これはぜんぜん違いますね」
しかし、これにしたところで、ワインを口に入れたのに牛乳の味がする、というほど違っていたとしたら、こんなふうには言わないわけだ。本当にそれほど味が違っていたとして、
「ぜんぜん違いますね」
と言ったならば、当たり前だと失笑されるに違いない。ぜんぜん違うと言う時、言わんとしているのは、ぜんぜん違うということではないのだ。ある枠内で考えた時に、そこからはみ出しかねないと言っているにすぎないのである。話を戻そう。地下鉄の漏水対策でもやはり考えられる枠内から時にはみ出してしまうようなアクロバティックなものが出現する。そうした違いを私はこの何年間も愛でてきたということなのだ。
地下鉄の漏水対策の観察をするようになった時期と場所はかなり明確に思い出すことができる。2018年にそれまで書き綴ってきた文章をまとめた出版物を自主制作した。それまであまり本の街・神保町とは縁がなかったのだが、それと前後するようにして、しばしば神保町を訪れるようになった。その時、地下鉄・半蔵門線の神保町駅のホームで天井から生えた何本ものビニールチューブが宙を舞っている光景が目に飛び込んできたのである。
それは私に集中治療室で無数の管を繋がれている重病人を思い出させた。咄嗟に私の頭に「瀕死の東京」という言葉が思い浮かんだ。都市の身体に管が繋がれている。なるほど、都市のインフラは建設されてから時間が経ち、懸命なメンテナンスが必要になっている。興味を持ち、以来こうした光景が目に止まるたびに、いやこちらから進んでどこかにそれはないものかと探して写真に収めてきた。そして、この5年近くの間に、コロナ禍があり、その間にも漏水対策は変化してきたように思う。雑然と漏水箇所をビニールシートで覆い、そこから管に流し、バケツやペットボトルで漏水を受ける。ただそれだけだったものが、ビニールシートの代わりに硬いプラスチック製のパネルで受けたりするようになった。壊れやすい一時的で即興的なものから様相は一変し、硬質で半常設的なものへと進化していった。記憶を探ってみる。かつては単に漏水箇所にはバケツ一つ、そして「漏水注意」と紙が貼られたパイロンが置かれているだけではなかったか? 一時期の私は、地下鉄の漏水が本質的に解決されるのではなく、対症療法的な工夫ばかりが洗練されていくことに、問題を見出しすらしていた。組織やトップではなく、現場ばかりが努力し、またそこに責任の皺寄せがいく日本社会の問題の縮図を見たような気になっていた。今になって考えてみれば、それは私自身が所属する組織とそこでの苦悩を単に投影していただけかもしれない。
ところが、しばらくして組織を離れて、ふと冷静になって気づいたのである。私は決して社会批判がしたいのではなかった。それどころか、この地下鉄の漏水対策を発見するたびに、嬉々として観察しその風景を蒐集していたのである。批判の気持ちなど微塵もなく、むしろいつまでもそれがあってほしいと願っていたと言っても過言ではない。その証拠に、思い浮かぶのは批判の言葉ではなく、「地下鉄に雨が降る」や「地下鉄に流れる水」などといった、下手ながらも詩的な言葉だったのである。私は、地下鉄の漏水対策のことを愛でていたのであり、愛でていればこそ、そのことをもっと深く知りたいと強く願っていたのである。
だが、どうして私はこんなにも地下鉄の漏水対策に魅了されているのか。それは依然として謎のままである。好きを言葉にすることは、簡単ではない。それでも日々、地下鉄を利用するたびに漏水対策を目で探し、そこについこの前まであったらしい対策の痕跡を見つけたりもしていた。いつか腰を据えて、地下鉄の漏水対策のことを取材し、文章にまとめたいともう何年も願ってきた。私はことあるごとに会う人会う人に、熱弁を振るってきた。皆、その熱に気圧されてか、興味を持ってはくださった。けれどなかなかその機会は訪れなかった。唖然としていただけなのかもしれない。これは自分で調べて書き、出版するしかないと腹を決めかけた矢先のことだった。突然、編集者の天野さんからメールが届いたのである。
「以前友田さんから聞いた地下鉄の漏水対策のことが最近気になり出しまして。……一度打ち合わせだけでもしてみませんか?」
ちょうどその日、丸の内線の池袋駅で上を向いて天井から漏れ落ちる水を観察していた私に、水滴ではなく幸運が降ってきた。またとない機会に私は舞い上がり、打ち合わせの約束をするタイミングで、
「せっかくだから、一緒に漏水対策を見て回りませんか?」
と天野さんをナンパしてみたのだった。
果たして、2023年の2月上旬、私たちは地下鉄九段下駅構内で待ち合わせた。いつも大掛かりな漏水対策があることを私は知っていたからである。では、行きましょうと階段を上り降り、エスコートする。そして、勇んでホーム中央に辿り着いた先に、しかし所望の漏水対策は、なかった! 動揺しながらも、きっとこの駅の構内にはどこかに漏水対策があるに違いない。私はキョロキョロと見回しながら歩いた。あの壁づたいにチューブが、あるいはこの柱の後ろにバケツがあったのではないか。しかし、そこにも漏水対策はなかった。私は焦った。せっかく手にしかけた企画がこのままでは頓挫してしまう。これまで、地下鉄の漏水対策を見て回り、ただ楽しんできた。だが、そこから何かしら意味のあることが書けるものだろうかという一抹の不安が確かにあった。その上、見て回る対象である漏水対策が見当たらないとなれば、ただちにこの企画は消滅してしまう運命だろう。
「ここにも、あそこにもあったんですけどね……」
などと半笑いで言いながら、内心はかなり焦っていた。「隣の駅も見てみましょう」と電車に乗り神保町へと移動する車中も話をしながら考えを巡らせた。さてどうしたものか……。そういえば、冬場になってからめっきり漏水対策を見かける回数が減っていた。実はそのことに私は気づいていた。今年の冬は雨が少ない。ニュースでも降雨量の少なさが報じられていた。ひょっとして、雨が少ないと、地下鉄の漏水も減ってしまうのではないか。確かに地中に染み込んだ水が少なければ、漏水だって少なくなるはずである。だが、この日は前日から時折みぞれ混じりの雨が降り続いていた。もっと漏れていてもいいはずである。あるいは、ついに水漏れを根本的に解決する技術が開発され、構内が綺麗に修繕されてしまったのだろうか。暗雲が立ち込める中で、私の頭は次々と仮説を立てていった。
それにしても、本来、地下鉄に漏水などない方がよいはずであり、それがもし解消されたのだとしたら喜ばしいことである。にもかかわらず、私は残念な気持ちに襲われていた。それはまた可笑しなことである。
よもやこのまま見つからぬままに、調査は打ち切りかと思いはじめた時、一つの漏水対策――それはほんのささやかなものだったが――を見つけたのだった。私たちは安堵した。
むろん、そのようなささやかなものだけでは、心許ない。だが、こうも私は感じていた。こうして思い通りに見つけられないことも、私が魅せられている理由の一つなのではないか。一方で、思いもよらぬ時に、思いもしない場所で、これは! というものに遭遇することもある。その時に記録しておかなければ、二度と見られない一期一会的なものである。これらがみな、漏水対策を見て回ることの面白さなのだ。
せっかくのことなのだから、私は天野さんにとっておきの漏水対策を見せたかった。そして、困った時には銀座駅という腹案があった。あそこにはさすがに見事なやつがあるのではないか。そう思って見に行けば、案の定、改札口の前にビニールシートとチューブとバケツといういかにもな、クラシックとも言うべき漏水対策があった。
「やはり見て回るもんですね」
とふたりで言い合った。なんとか見つけられた。探し始めてから二時間ほどが過ぎていた。今日はこれくらいでと蒐集活動を終え、地下道を歩いていると、その日見つけたものよりももっと壮大な漏水対策が目に飛び込んできた。探していた時には見つからないものが、探すのをやめた途端に見つかることもよくあることだ。
道端に咲く一輪の花のようだと思う。けれど、これらは一つ残らず人の手によるものなのだ。いつどういうふうに漏水が現れるのだろうか。どんな漏水対策があるのだろうか。そして、それを誰がどのように作っているのだろうか? 興味は尽きない。それらを見て回るなかで何が明らかになるのだろうか。しばしの間、観察し考える日々にお付き合い願いたい。
(つづく)