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見做すことの暴力性(現実編)|絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室|はらだ有彩

 前回書いた、

これまでの歴史の中で、
女性を一方的に「見られる立場」に閉じ込めるシステムが生み出され、
女性を「見る立場」から一方的に閉め出すシステムが生み出され、
そんなシステムの中で絵の流通経路・評価システムが生み出され、
そんなシステムの中で生み出された絵を見て人類は生まれ育ってきた

 という事実を、この連載ではひとまず「見ることの暴力性」と呼ぼうと思う。長いからだ。
 どうやら、絵の中と外では、何かが起こっているらしい。絵は無為にして自然発生した、疑いようのない原理原則ではないらしい。われわれは絵を前にして、何も考えずに安心していられるわけではないらしい。

 ここでイヤなことに気づいてしまった。
 ……まだ、何も描いてなくない?
 今のところ「見た」だけで、1㎜の線も描いてなくない?
 まだ「絵を描く」という行為の初期段階である「見る」工程までしか進んでいないのに、早々に絵に潜む暴力性に直面してしまった。この調子では、「描き終える」工程に辿り着くまでに、どれだけ恐ろしいことが起きるのか分かったものではない……。一体、どうなってしまうんだ……。
 手探りで描き進めて、その都度「絵を描く」という行為に潜む無意識の暴力性にぶち当たっていては身がもたない。というわけで、絵を描こうとしてから描き終えて公開するまでの工程に照らし合わせて、次のような仮説を立ててみた。

 ……うーん、あらかじめ仮説を立てておけば心構えができるかと思ったが、逆効果だったかもしれない。「絵を描く」だけで7つも心配しなければならないことがあるかもしれないなんて、多すぎてイヤになってきた。
 だいたい、自分が生まれるはるか昔から降り積もってきた暴力性の延長線上に立っているだけで、なぜ自分自身も暴力性のポテンシャルを背負わされなければならないんだ? 一体どないせいっちゅうねん??? と思われた人もいるかもしれない。

 しかし途方に暮れようが、めんどくさかろうが、スルーするわけにはいかない。「絵を描く」行為には暴力性が宿っていて、だからこそ絵そのものにも暴力性が宿る、というこの上なくイヤな可能性をスルーした瞬間、絵を描く人は、絵を見る人は、その暴力性に加担することになる。そして反対に、スルーしないという消極的な積極性を持つだけで、少なくとも「見ないふりをしているうちに加担しちゃってた……」という、絵にもモチーフにも申し訳ない事態にならずに済む。
 絵を描く人も、絵を見る人も、絵の持つ暴力性を検証し、自覚しなければならないのだ。

われわれは現実世界で見做している

 それでは早速、【2)見做すことの暴力性(現実編)】について考えてみよう。
 えっ、前回の【1)見ることの暴力性】と被ってない? と思われただろうか。しかし「見る」と「見做す」は、重なり合ってはいても異なるアクションである。

 「見做す」とは、「見た」対象に何らかの意味を紐づけ、その意味を以てして、対象を扱うことだ。「見做し」が多くの人に受け入れられ共通認識となれば、社会全体が「見做し」を前提として動く場合もある。例えば、小さく平べったい円形の金属に価値があると「見做す」から、社会全体がそれを貨幣として扱うように。
 「見做す」とは、「絵を描く」という行為の工程に照らし合わせると、【③モチーフとなる対象を○○だと認識する】ことだ。これからモチーフにしようとしている対象について、自分の記憶や経験を鑑み、世の中の態度を鑑み、共通認識を鑑み、他の人が作った創作物を鑑み、それらのどこにも未だ表されていない創作の予感を鑑み、よく考えることだ。そしてモチーフにしようとしている対象を「◯◯だ」と認識し、意識的か無意識的かにかかわらず、「◯◯として描こう(◯◯として扱おう)」と決めることだ。

 「モチーフとなる対象を◯◯だと認識する」のは、現実世界に生きている人である。だから「◯◯」の部分は、現実世界がモチーフとなる対象をどう見做しているかに強く影響される。
 ノーマ・ブルードとメアリー・D・ガラ―ドが共同編集した『美術とフェミニズム』の日本語版(1987)には、中世から現代までの人々が女性をどう見做し、その見做しがどのように各時代の美術作品に反映されているかを探った7つの論文が収録されている[*1]。
 いくつか抜粋し、超ざっくり要約してみよう。

中世の修道院では、人間が堕落するのは基本的に女性のせいだと見做されていた。そのため、当時の教会美術には激しい女性嫌悪に基づくモチーフが選ばれていた。その後、女性の地位が過去に比べて向上するにつれ、表現の幅は広がっていった。

「イヴとマリア」ヘンリー・クラウス

ルネッサンス期にも、女性は基本的に不誠実で危険なものだと見做されていた。旧約聖書に登場する怪力の男性サムソンと彼を裏切った女性デリラは、ルネッサンス期以降に繰り返し描かれるうちに、恐怖に基づいた女性への敵意と、性愛と母性愛への葛藤とを表現する主題として確立されていった。

「デリラ」マドリン・ミルナー・カー

18世紀のフランスでは、啓蒙思想家、哲学者、医者、教育者によって「夫婦間・親子間に愛情があり、その愛情を以て夫が家庭の主導権を握り、その愛情を以て母親が子どもを養育する状態」が幸福で文化的で自然な生活だという新しい主張が打ち出され、温かい家庭で妻として母親として生きることが女性の好ましい生き方だと見做されるようになった。18世紀以降、母親としての女性、妻としての女性を、崇高な幸福感とともに描いた絵画が理想の家族像として広まった。

「幸福な母」キャロル・ダンカン

19世紀後半には、(描き手のほとんどが男性だったために)男性から見た男女関係こそが人間の中心的な問題として扱われた。20世紀の前衛芸術では、人間の内面や衝動を激しく自由に伝えることが重んじられ、(描き手のほとんどが男性だったために)男性の抑えがたいリビドー的なエネルギーこそが文化的創造の源であると前提されるようになった。女性は「肉体に支配され、自然に支配され、獣性に支配された非・文化的な存在」と見做されていたため、またはそう見做したいという希望から(折しも20世紀初めにはヨーロッパで婦人参政権運動が広まっていた)、モチーフとしての女性は「肉体的で、自然的で、獣的で、非・文化的」であることが本質とされ、それ以外を削ぎ落されることになった。

「男らしさと男性優位」キャロル・ダンカン

 などなどである。論文を2、300字で無理やりまとめたため、時代背景を細やかに検証している部分をすっ飛ばしてしまった。中世や近代の時代背景や当時の人々の感覚は、その時代を生きている人でなければ、検証なしではすんなりと体感できないかもしれない。
 それでは、中世でも近代でもなく現代に生きるわれわれは、たった今、女性をどう見做し、どのように取り扱っているのだろう? われわれが女性を「◯◯だ」と認識し、「◯◯として描こう(◯◯として扱おう)」と決めるとき、「◯◯」には何が入っているのだろう?

 現代に生きる私は、最近、アイドルのミュージック・ビデオを見た。(G)I-DLE(ジー・アイドゥル、ヨジャ・アイドゥル)という韓国のセルフプロデュースによる女性アイドルグループが、2022年に発表した「Nxde(ヌード)」という楽曲である。
 このMVには、「見做された現実の女性」と、「見做された女性のイメージ」の両方が登場する。

 インタビュー[*2]によると、「Nxde」のコンセプトのひとつは、「Nude」という言葉と状態を、いついかなるときでも性的なものと見做す視線への抵抗である。アイドルという職業に就く者を好き勝手な姿で見做す視線への抵抗でもある。
 MVでは(G)I-DLEのメンバーが、セックスシンボルと見做されたマリリン・モンローや、ムーラン・ルージュの踊り子や、美術館のガラスケースや展示台に設置された彫刻に扮する。美術館に展示されたメンバーには、来場者のスマートフォンのカメラが向けられる。リーダーのソヨンが、期待していた「いやらしい」作品がなくてガッカリした人に、チケットの払い戻しを呼びかける。
 シーンが変わり、地面に打ち捨てられたスマートフォンに、配信サイトが映し出される。配信動画の中でメンバーが背を向けて服を脱ぐと、視聴者のコメントが流れる。見苦しい(嘔吐する絵文字)。男はこういうの好きじゃない。恥知らず(親指を下に向ける絵文字)。彼女にラップなんてできない。彼女は変態だと思う。こういうの期待してない(親指を下に向ける絵文字)。
 MVには、メンバーと同じ衣装に身を包んだ、ディズニー風のアニメキャラクターも登場する(このキャラクターは脱退したメンバーを象徴しているという説もある)。彼女は配信サイトに「こういうの期待してない」と書き込んだ人が概ね期待しているであろう、攻撃的でない仕草で踊る。そして見えない何者かに攻撃されて衣服をビリビリに破られ、狼狽える姿がオーバーアクションに「描かれる」。彼女が描かれた絵は、オークションで落札された直後にシュレッダーで破壊される。

 これが中世でも近代でもなく、2022年に意義のある抵抗としてリリースされているということは、現代はまだこのような抵抗を必要とする状況にあるということだ。
 現実の女性を、人間が堕落する主な原因と見做し、貞淑であるべきなのに不誠実で危険である許しがたいものと見做し、妻として母として生きることに無条件に幸福を感じるものと見做し、肉体に支配され、自然に支配され、獣性に支配された非・文化的なものと見做した延長線上で、ラップなんて到底できない、そんなものよりいついかなるときでも性的で見苦しくない体を見せて然るべき存在だと見做す、そんなまなざしと手つきが現代にあるということだ。

 たったひとつのアイドルグループの、たったひとつの楽曲のビデオを例に挙げるだけでは、そんな「見做し」が存在することを検証できないだろうか? 検証できないなら、これから一緒に適切な例を探してみよう。何しろ現代の現実世界において、現実の女性を「◯◯だ」と見做しているのは、現代の現実世界を生きるわれわれなのだから。


【注釈】
[*1]『美術とフェミニズム(Feminism and art history)』の原著版は全17章で、古代エジプトなどより古い時代の芸術も取り扱っているが、日本語翻訳版では中世以降のものが抜粋されている。邦訳はノーマ ブルード+メアリー・D・ガラード『美術とフェミニズムーー反駁された女性イメージ』坂上桂子 訳、PARCO出版局、1987年。
[*2]「(G)I-DLE、新曲「Nxde」でメンバー全員がイメチェン!外見による偏見に言及(総合)」『Kstyle』2022年10月17日(最終閲覧=2023年1月11日)

著者:はらだ有彩(はらだ・ありさ)
テキスト、テキスタイル、イラストを作る“テキストレーター”として活動。著書『日本のヤバい女の子』『日本のヤバい女の子 静かな抵抗』『百女百様』『女ともだち』『ダメじゃないんじゃないんじゃない』はいずれもイラストも担当している。ILLUSTRATION2021掲載。

連載「絵にモヤモヤする人のための描かない絵画教室」について
私たちの身の回りには、さまざまな絵があふれています。仕事であれ趣味であれ、自ら描く人もいれば、純粋な楽しみとして描かれた絵を見る人もいるでしょう。しかし、そんなありふれたものだからこそ、絵にたいしてモヤモヤする瞬間も、たくさんあるのではないでしょうか。とりわけ、「女性のイメージ」を描いた絵にたいして……。本連載では、そんなモヤモヤにたいする解像度を高め、(良くも悪くも)絵がもっているパワーと厄介さを理解し、最終的にはそれでもやっぱり「絵が好きだ」と思えるようになるための「描かない絵画教室」です。