見出し画像

商店街はなぜ滅びるのか


1章「両翼の安定」と商店街

商店街は伝統か?

商店街の起源は諸説ある。

平安京からあるとの説もある。商店街の良さはそもそも古さや伝統で評価されるならいくつかの商店街を文化財として保存すればいいだけ→でも違うなら良いとこを残して未来に受け継ぐべき

現在の商店街は20世紀前半の都市部への(離農者の)人口流入がきっかけ。みんな資本やスキルを必要としない零細小売業を始めたのがきっかけ。→その人たちを守るために制度として商店街が発明される。

商店街の家族(落合恵美子さん:社会学者の引用)

商店街が滅びる原因となった近代家族の特徴

・家族の集団性の強化
・社交性の衰退
・非親族の排除

これは主に雇用労働者(サラリーマン)を中心として考えられていた。でもこの概念は零細小売業の人達にも適応された。

昔(近世:江戸)の商家は店を後世に残す意志が強かった。そのため家族構成員にふさわしい跡取りがいなければ家族以外の人を積極的に活用していた(擬似血縁組織)つまり20世紀以降の小売商は柔軟性のない組織だった。

大企業の台頭によって零細小売業の立場は弱まった。小売商は政府に依存するようになってきた。→小売商の保守化

経済学者たちは零細小売商を社会の「遅れ」として批判する。がハワードの「田園都市」論でアーケード構想を論じ、商店を街めてアーケードで覆いコミュニティスペースとして利用すべしと主張。

クラレンスペリーの「近隣住区論」市街地を小学校が成立する規模に分割し生活に必要な機能を与える。通過交通をなくす。という理論でも商店街はポジティブな解釈をされる。

だが日本ではこういった都市計画論より経済論などの方が強いため商店街は批判的な目で見られていた。

2章「商店街の胎動」


第一世界大戦後農村から都市へ人口が流入するが雇用がないので小売業に多くの人が参入する。増えすぎたため淘汰や物価の乱高下が起きる。その時の市民の自衛策として協同組合(今の生協)が作られる。物価の高騰を招いている原因と認識されると、政府には対抗策として公設市場を作成する。

百貨店の登場

元々高所得者のための呉服屋などの系譜だったが関東大震災を契機に一般大衆向けに座売り式から陳列販売方式に変更しやショーウィンドウや休憩スペース、食堂などを導入し大衆化に成功する。零細小売店と対立。

商店街という理念の誕生

零細小売店が百貨店や協同組合と対抗するには資金力などの力が足りなかった。ので商店街を結成して対抗する必要があった。当時の零細小売店の問題は2つあった。

専門性:零細小売商は簡単に事業に行き詰まっていた。小売店の平均寿命は1年11ヶ月でスクラップビルドがよく行われていた。
利便性:計画性のない出店により利便性が確保されていなかった。一つの地域で買い物が完結できなかった

専門の連なりとしての商店街

専門性を確保しそれぞれの店が一つの地域に集積すれば百貨店のように専門性と利便性を兼ね備えた空間になる。地を這う百貨店と呼ばれる。

このように商店街は百貨店、協同組合、公設市場のハイブリット型の商業空間として誕生した。

地元型の商店街

元々商店街は繁華街向けの制度だった。だがそれだけでは地方から流入してくる人に零細小売業者の増加には対応できなかった。→生活業態を中心にした商店街が構想される。

行政による2つの制限(距離制限、免許制)と満州事変などによる総力戦体制が後押しし地元商店街は急速に普及。

3章商店街の安定期(戦後闇市の時代)

戦後強烈なインフレにより闇市が増加全国の主婦は消費者運動をする。

政府は商店街の保護を実施し商店街の設立を援助。(現在の商店街の90%はこの時期にできた)
高度経済成長期でも、小売業は戦後不況からなかなか立ち直ることができなかったので商工組合は国に対してさらに様々な規制や保護を求める。その一つが「中小企業団体法」である。
これは商工組合に価格や販売方法のカルテルを一定程度認めるというものである。
この法律が適応される商店街は一部だったので商店街はさらに保護を求めた。「商店街振興組合法」である。
これは、政府が必要と認めた場合、アーケードや駐車場などの補助金を公布するというものだった。

スーパーマーケットの登場

問屋を介さずメーカーと直接取引をするスーパーが登場する。スーパーは流通の無駄を省き廉価で日用品を販売することができた。
商店街は強く反対しスーパーなどの大規模小売店は「大規模小売店舗法」という規制が設けられた。だが商品価格は商店街より安く、安定した品質の商品を販売するためにスーパーの勢いはあまり落ちなかった。
商店街は国からの異例なほどに手厚い保護によってなんとか生き残っていた。が、雇用層などからの反感を買っていた。

4章商店街の崩壊期

コンビニの登場

コンビニは1974年(オイルショックから1年後)から急激に増加していた。コンビニの発展の理由は零細小売業からの業態転換や社会構造の変容で、大量生産大量消費が普及したことである。
コンビニはフランチャイズ制度を初め、コンビニ店主を募集する。それに手をあげたのが零細小売店の店主である。これにはいくつかの理由がある。

一つは、零細小売業主が抱いていた、事業の後継がいないという問題である。コンビニに事業転換すると解決できるという解を出した事業者が少なくなかった。以前までは店舗と住居が同じ建物にあり混在していたため発生していた問題である。

もう一つ重要なのが、「日本型福祉論」である。1980年、日本は福祉政策として年金改革をする。この制度で重要なのが扶養される配偶者の年収は130万円未満の人々という規制である。
この制度によりパートの人たちは時給が上がらなくても問題ではないので安い時給でも働くようになった。そのためコンビニは人手の確保が容易になった。

オイルショック後の貿易摩擦

オイルショックにいち早く立ち直った日本はアメリカとの貿易摩擦でアメリカから批判される。その際に内需拡大をするよう圧力をかけられた。日本は公共事業に投資をすることで対応する。
この投資によって全国の中心街から離れたところに国道アクセス道路が作られた。その道沿いに多くのショッピングモールが建設された。これが原因で郊外化が進んでいく。
商店街は徒歩での消費を前提としていたため駐車場もなく広い道路にも面していなかったし、商圏も狭かった。だが道路事業の拡大により郊外のショッピングモールが普及し自動車中心の街が増えていく。

5章両翼の安定を超えて〜商店街の何を引き継げばいいか〜

商店街が崩壊した理由の一つは専門性の欠如である。商店街の出店許可はその商店街の許可が必要で事業者は街を私物化していた。これは間違った規制であると筆者は考えている。

新しい商店街理念とは(筆者の考え)

・距離制限や免許交付の普遍的な制度設計
・各地域の独占営業権を排除する。

これまでの免許制度はその土地で営業しているものに対して権限が与えたれていた。その免許は相続のように引き継がれて身分制のようになっていた。
地域社会で土地や店舗を管理し若者などに貸し出し、事業を行う機会を作ることも大切である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?