横断歩道の記憶
横断歩道は人間心理が浮き彫りになる。
誰も見ていなければ赤信号でも渡ってしまったり、他の人間が渡っている場合も同様。後ろ髪を引かれるからと白線を踏まないように少しずれたところを渡り罪悪感を僅かでも減らそうとする利己的なところからも人間の浅ましさが伺える。
地域差もある。
都会は歩行弱者の方が圧倒的に優位なようで、東京は歩行者用の信号が赤に変わってもトロトロとペースを変えずに歩き切る。
対して田舎は危険だ。ヤンキー、煽り運転、飲酒運転。自分の身は自分で守らなければならない。ちんたら歩いていたらクラクションを鳴らされる。
ただ運転手側も気をつけてほしい。
僕が本当に参っていた頃は「ここで軽く事故れば慰謝料で数カ月分の家賃が払えるかもしれない」などとふらふらしていたこともあった。
僕の魔が差さなかったことに感謝してほしい。
そんな話はさておき、今回は横断歩道についての思い出の話。
昔の恋人と同棲していた頃、徒歩5分弱のコンビニの目の前に短い横断歩道があった。走れば1秒やそこらで渡れるだろう。
普段駅までの道程は住宅街から一本道のため、近所で渡る横断歩道といえばそこだけであった。
その道は閑静な住宅街から一本離れたところで交通量も多いが、深夜にもなればたいしたことはなかった。
僕と彼女がそのコンビニを利用するのは主に深夜であったため、人気の無い静かな道をどうでもいい会話で埋めながら歩いた。
ある時コンビニを目前に信号機の押しボタン押すと、「ちゃんと信号守るところが好き」と彼女から言われた。
言われた本人としては不意打ちの好意というものに喜びを感じつつも、自身のバカマジメで融通の利かなさに対して面倒くさい人間性のひとつだと考えていた箇所でもあった。
当時の僕は社会をサバイブするため、形骸化したルールを破ることに努めていた。「横断歩道?赤信号?ニューヨークならそんなのみんな自己責任で渡ってるぜ」とかなんとかそんな痛いことを語っていたかもしれない。
そんな最中でのこの台詞は死角からの狙撃であった。
彼女は続けて「赤信号を渡ろうとする私がいたら引き止めてね」とも言っていた。
何を言っているんだと思いつつもなんとなく、言わんとしていることは伝わった。
これが仮に彼女の中で映画や小説のワンシーンに影響を受けただとか、そんな程度のマイブームだったとしても、それでもいい。
その日から僕は『赤信号を渡らない人間』になった。
またある日、僕らは例のコンビニで買い物をした帰りだった。
その日は荷物も多く、彼女も疲弊していた日だったと思う。
コンビニを出ると歩行者用の信号機は赤に変わった直後であり、僕は押しボタンに手を伸ばしかけた。
すると彼女は「ねえ、今日は渡っちゃわない?」と疲れた顔で提案してきた。
逡巡、僕は以前の会話を思い出した。信号も1,2分はあれば青になるだろう。
だけど僕は「いいよ、渡っちゃおうか」となるべくいたずらっぽい笑みで答えた。
不思議な感覚だった。彼女の好きな僕から逸脱する行為かつ、以前の彼女に求められていた答えとは違う方を選択した。なによりたかが小学生でもする程度のルール違反にここまで高揚することが不思議だった。
帰り道、うわの空で談笑しながら僕は考えた。
きっとこれは彼女の心に触れたのだと。
以前信号を守る僕を見つけてくれた時、僕の知らない僕の輪郭が現れた。
今回は彼女自身の弱さから来る矛盾もとい、彼女が彼女らしく振る舞っていれば見つからなかった部分をまたひとつ知ることができたのだ。
なんともスケールの小さな共犯関係で大げさな感動を得られるものだと我ながら感心した。
その日から僕は『赤信号を渡らないけど、たまに渡る人間』になった。
それから数年、彼女は今もあの町で暮らしているらしい。
僕はといえば何の因果か、以前と同じくらいの距離に同じコンビニと、その間にひとつだけ横断歩道があるところに住んでいる。
現在の僕は『赤信号はなるべく渡らない人間』だ。
あの頃に比べて遥かに怠惰になった僕はもう細かいことを考えるのも面倒くさくなった。誰かが見ているとか見ていないとか、横断歩道を避けて渡ればいいだとか、罪悪感がどうのとか、自己責任とか、どうでもいい。
だけど、もしも今の僕が彼女に会ったとしたら、変わってしまっただなんて思われたくはない。
もしかしたら向こうはこんな話なんてとっくに忘れているかもしれない。
もしも会えたら、幸いにも喋りは得意だから信号待ちの間にでもこんな文章を書いたことを話してやろう。そうすればきっとまた笑い合えるはずだ。
あの頃君が退屈しないように夜空とかに注意を逸らしていたのは気づいていただろうか。「月が綺麗」だなんて使い古された話を何百回繰り返しただろうか。星座が苦手で夏の大三角形とオリオン座しかわからないことを覚えているだろうか。今更ながら勉強し直してみようか。
そんな話をしてやろう。
今日も夜更けに煙草を求めコンビニへと赴くだろう。
その時もきっと信号が青に変わるのを待つのだ。
うっかり魔が差してしまわぬように。