スリル・ミー感想③
まさかのスリルミー感想第三弾。
本当に、それだけ面白いミュージカルであるということですよね。
「少年殺害凶悪事件の隠された動機」という言い方もできますけど、それ以外にもいろんなキャッチフレーズが作れそうです。「ニーチェ信奉者の過ち」でも、「資本主義の病」でも、「父に抗う息子」でも、あるいは「サイコパス×メンヘラ」でもいいですよね。
今回の感想では、ネクタイについて書きます。他にも少し気になった事項を書きます。
まあ、人によっては深読みとか思われそうですし、あるいはざっくり読みすぎだと言われそうですが。でも、こうやってみると面白いんじゃないかってことで。
ネクタイの話
ネクタイがかっこいい、というかスーツがかっこいいですよね。
でも、ネクタイをしている場面としていない場面がありますよね。
地味に気になっていたんですよ。「スリル・ミー」の後、明らかに彼もネクタイをしめる時間があるのに、ネクタイを内ポケットにしまう。なんでなんでしょうね。
そしたら、友人も気になったようなので考えてみました。
記憶を掘り起こして、YouTubeに出てる断片的な映像を、必死になって確認したんですが。
・「優しい炎」では若干ネクタイが緩められる。
・「スリル・ミー」ではネクタイをとる、けれどその後「私」はネクタイをしめ、「彼」はネクタイをスーツの内ポケットにしまう。
・子供を殺した場面では二人ともネクタイを取っていて。メガネの歌や、あの夜のことを考える歌ではお互いネクタイがない。
・が、「私」が警察への自首を決める場面では「彼」だけネクタイをして「私」はネクタイがない。
・牢屋にやってきた「彼」にはネクタイがない。
普通、ネクタイをしめるのは、人前に出るからですよね。
一定程度の地位にあるホワイトカラーの上流の象徴とでもいうのでしょうか(ステレオタイプとして)。
19歳で大人びた格好をしていることが彼らのネクタイからは読み取れますし、ネクタイをしめることで社会に属しているとでも言えるのではないでしょうか。
だから、「彼」が子供を殺すと決める場面は社会に縛られないことの象徴として、ネクタイをしていないのですし、一方の私は、まだそこまで考えていなかったのでネクタイをしていないのでしょう。
逆に子供を殺す場面では、お互い社会に戻れない位置にきていると言えるので、二人ともネクタイがない。
眼鏡や、あの夜の話あいのシーンは、まだ一応超人計画(つまり、社会の常識や枠を乗り越えようとしている)の一環でもあるので、二人ともネクタイをしていないです。
が、「彼」が「私」を見捨てようとする場面では、「彼」は「私」を見捨てて社会へ復帰しようとしていますから、ネクタイをしているんだと思います。
そして牢屋の中ではネクタイはもうないです。牢屋にいる時点で社会に帰属するも何も、もうないですから。
ラスト、「彼」はネクタイをしていて、「私」はしていないわけですが。あの「彼」が「私」の想像の中の「彼」だとするのであればやはり「彼」も社会的な存在として位置してほしかったと「私」が思っているのでしょう。
一方の「私」はネクタイがないので、社会に復帰できているとは言い難いと思います。
そう思うと、特に注目したいのが「私」の促しによって「スリル・ミー」の場面で彼が先にネクタイを緩める点です。結局、「彼」が子供を殺す考えに至ってしまったのは「私」が行為を強要したからと言えますし、「私」によって「彼」が緩める、という過程はその後の展開、99年の計画に合致しますよね。
それから、このネクタイって、あるものに非常によく似ていると思うんですよ。
ロープです。子供を殺したあのロープ。
「彼」にとって首に絡み付くものは死と結びついていたと思います。「死にたくない」の歌では自分と子供を重ねわせるようにして首にロープが巻きつくようだと表現しています。
そう思うと、特に「彼」にとって社会規範、世間体というのは、自分を殺してしまうようなものであったと考えることができますし、この社会規範、世間体への固執は、「親父が金を払うのは世間体のため」という発言や、殺しがダメなことについて「私」が「社会が決める」というと「その社会を超越する」と返す様子からも、明らかです。
また、印象的なのは「スリル・ミー」の直前、確か前田「彼」は首に手を当てて「何のスリルもない」と言っていましたし、ネクタイもしめていました。やはり彼を苦しめていたのは社会であり世間体であったと言えるのではないでしょうか。
(ちなみに私の父は無職引きこもりなので、長らくネクタイをしめていなくて、親族の葬式の時にネクタイを頑張って探し出していました)
燃やすことについて
「彼」はそもそも燃やすことに興味があります。
「私」にもらったマッチでタバコに火をつけた時、しばらく火を見つめていましたし、倉庫を燃やした時は炎に魅せられていました。盗みの時もライターを見つめ、子供を誘拐する時もライターをならしてました。
まあ、順当に考えれば、既存のものを壊したい、ということで焼いているんだと思います。
でも、塩酸も焼くものですよね。これも気になるんですよ。
「顔に塩酸全てを焼いて」という歌詞があって、「どこの誰ともわからぬように」焼くんですけど。燃やすことによって誰だかわからなくなる、まっさらな状態になる、とは捉えられないでしょうか。
あとは「面子」とか「顔を立てる」とかいう言葉があるように、顔って割と世間に関連する言葉ですよね。英語でも面子を失うことを lose one’s faceと言いますし。
世間体とかそういうもの全てを「彼」は焼いてしまいたかったんだと思います。
金について
結構この話って金の話ですよね。というか、「私」って全てを金で解決しますよね。
思えば、「彼」の大学院の情報は金で弟から買ったものだし。
メガネも金持ちの高級品。
弁護士も金で雇って。
看守すらも金でどうにかしようとする。
あんまり深いこと言えないんですが、実は倫理観ヤバいの「私」ですよね……。
資本主義の歪みを感じました。
メガネについて
メガネをかけたり外したり。これって何か意味あるんでしょうか……。
メガネにどんな意味があるんでしょうか。ちょっとそこはやっぱり私にはわかってません。
ただ、「メガネ」は親から与えられた高級品であり、いわば愛の結晶ですよね。
それによって身元がバレるって、親の愛を感じられない「彼」にとっては最悪ですよね。
タイプライターも高級品ですけど、これはあくまで盗んだものですから。
「彼」にとっては愛情などは無理矢理盗むもの、正当に与えられることはないものだったのでしょうか。
その他
いろいろあるんですけど。
今後また見たときの着眼点としてメモしておきます。
・人種について。
史実だとユダヤ人ですよね。でもこの話では人種の話は出てこない。あえて外しているようにすら思える。となると、あんまり人種含めて考えるのはナンセンスかな、と思ったりもします。
・年代も正直わからない。
スーツが古風ってのはありますけど。具体的な年代はわからない。今から35年前ってことだけわかる。……となると「彼とは友達でした」という言葉が気になります。
ネイサンの手記か実際の記録か何かと同じ文言とかいう噂を見たんですが、そうだったとしても、この話ではその時代背景にあるソドミー法(同性愛の禁止)とかも含めて考える必要はないのかなと思うんです。
審理委員会が同性愛を迫害するような描写や、同性愛を感じ取って嫌悪したりする描写はないので。また違った文脈で読めるのかな、と思っています。
まあ、この辺りの曖昧さは、愛の普遍性を感じてもらうため、とかそんな感じに理解できそうだなとはおもっています。
ああ、早く再演してくれないかな。それと、DVD1種類だけでいいから作ってくれないかな……。
本当に気が狂いそうです。
追記:姉に、同じ作品を繰り返し見てしまって…という話をしたら、「私も宝塚のfffのDVDの、ナポレオンの戴冠式の場面は100回は見てる」と言われました。
ハマるとずっとそれになってしまうのは、多分遺伝ですね。