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痛かった
初夏の青々とした森の中を足音を立てないように慎重に歩く。木々のどこかから、ホーホケキョーという声がする。その日、私と夫は冬以来の野鳥撮影を楽しんでいた。
年の初めに北海道へ旅行に行った際、雪の中で頭の赤い鳥を見つけた。ハトより一回り小さく細身で、背は黒く、尻尾に近い方はまだら模様になっている。頭と尻尾の内側が赤いのが印象的なその鳥は、白銀の世界を自由に飛び回って、気に入った木を見つけると、コツコツとつつく。ココココ…と響き渡る音と、その可愛らしい姿に心を奪われた。
帰って調べてみると、その鳥はアカゲラというキツツキの仲間だった。アカゲラは自分が脳震盪を起こすまで木をつつくらしい。なんとアホ可愛い…!
それから野鳥に興味を持って、近所の公園にカメラを持って探しに行っている。ここ最近は自粛で全くできず、冬から一歩も進まないまま5月も末になっていた。久々に外に出て、マスクから鼻先を少し出してみると、鼻腔に新鮮な緑の匂いが入ってくる。鼻は頭に直結しているというけれど、唐突に頭が体に季節をインストールしてきた。この期間、私はどこを生きていたのだろうと不思議になる。
しばらく歩いても冬鳥たちは見つからない。地球の季節は先に進んでいるのだ。
野鳥撮影をする私にとって、今年の初夏は初シーズン。なんの鳥が出てくるかもわからない。都会育ちの私と夫は、森があるような公園で遊んだことはほとんどない。虫を怖がりながら、道のような道ではないような木々の隙間の道を歩く。
細い土の階段は新緑に囲まれて青々している。いたるところで白いふわふわした蛾が絵本の中のように漂っていた。この数を数えてはいけない。おぞましい数になってしまう。今見えている、ファンシーな世界のままでいよう。
なるべく蛾にも蜘蛛の巣にも気を取られないように歩いていると、左の薮から音がした。虫などではなく猫とかネズミとか、とにかく獣が動いた音だ。町の公園なのでクマということはない。それでも聞きなれない気配には足が止まる。身をきつくしていると、前の木に何かが登ったのが見えた。
アカゲラだ…!
すかさずカメラバッグからカメラを取り出す。カメラバッグのマジックテープがジリジリという音を立てたせいで、鳥が移動してしまった。でも、まだ撮影できる近さにいる。こんな近くで見られるなんて!
ファインダーに入れて、とにかくシャッターを切る。何かを調整できる技術は持ってない。とにかく連写だ。ファインダーの中の鳥は、コマ送りのように動きながら、少しだけ自然の魅力を私たちに振りまいて、またどこかへ飛んで行ってしまった。
私は大興奮だ。こんなに近くで鳥を見たのは、ゴミを漁るカラスくらいなのだから。近くにいた虫なんてどうでもよくなって、真の緑の中で私たちは少し前の過去をディスプレイで覗いた。
「撮れてるよ! 見て、アカゲラ!」
「すごい! 可愛いな。こっち見てる」
「あれ、でもなんかこれ前見たのと違う…」
「オスとか? 前見たのがメスだったとか?」
「どうだろう…」
こんな時、現代は本当に便利だ。
カメラからスマホに写真を送って、Googleの画像検索をすれば、鳥の名前もわかってしまうのだから。
「アオゲラだって!」
「へぇー。また新しい種類を撮影できたね」
「うん!」
公園にはたくさん鳥がいるけれど、小鳥はそう簡単に撮れない。ましてや、プロのようなカメラでもない。よほど近くにいないと撮影できない。
街中で見たことのないような鳥を撮れたなんて、ラッキー中のラッキーだ。うぐいすの声を追って森に入ったが、今日はこれで満足だった。
ルンルンで森を抜けて、開けた公園の出口に向かう。今日の夕飯は何にしようかなーなんて、せっかくの瞬間を手に入れても頭の中が家事なのだから主婦というものは恐ろしい。
その時、右耳に羽音が走った。
見なくてもわかる。大きいハエとか、ハチの音がする。反射的に暴れてはいけないことは知っていた。立ち止まって身を縮める。夫が不思議そうに振り返ったのが見えた。その隣を黒い大きな塊が通って、私の目の前にやってきた。
「きゃ!」
また右耳を羽音がかすめた時、右腕に痛みが走った。注射を刺された時のような痛み。あっという間に右腕が痺れて、かっと熱くなった感じがする。それはきっと一秒にも満たないことだっただろうが、私には全てが一コマずつ感じられた。
「何? 虫がいた?」
夫が寄ってくる。私は銅像のように固まったまま動けない。
「い、痛いよぉ〜!」
痛い。とにかく痛い。右腕が動かせないくらい痛い。何されたのかわからない。黒い物体はちょっと黄色も混ざっていた気がする。ハチかもしれない。痛い。ハチに刺されたの?痛い。ハチに刺されたら死ぬんじゃなかったっけ…?
どうしたのかという夫の質問に、痛いしか答えられない。道のど真ん中にいたので、移動しようという誘導にも痛いしか答えられなかった。
まるで子どもが火を噴くように、いい大人が痛いしか言わず泣き叫ぶ。
あぁ、こんなに痛い思いっていつが最後だっけ。
私は口が「痛い」しか言わない中で、どこかに意識を飛ばして思い出していた。
そうだ、電車とホームの間に落ちた時だ。
終電の近い、山手線の目黒駅。知らない酔っ払いのおじさんにホテルへ行こうと言われて、嫌だ嫌だと電車から無理やり降りたら、電車とホームの間に落ちたのだ。
間が狭かったからか、私の足が太かったからか、片足だけ太ももの付け根近くまですぽっと落ちた。電車が発車してしまいそうで、早く這い上がらなくてはいけなかった。
都会なので、誰も助けてくれない。むしろ酔っ払いに絡まれていたので、みんな白い目で見ている。私を無理に引っ張ったおじさんは隣の車両へ移っていった。発車ベルのなる中、私はプールサイドへ上がれない子どものように必死になった。
あの時は、助けてとも痛いとも言えなかった。ストッキングが破けて、大きい青あざになった足を引きずって帰った。恥ずかしくて病院にもいけない。
夫が服の袖をめくって、痛いと喚く私をトイレに連れて行き、傷口まわりをつねって水で流し始めた。行きがけに持っていった、氷入りの水筒が役立った。キンキンに冷たい水が、傷口を冷やす。痛みがすーっと消えていく。
私の意識がどこかへいってしまっている間、夫はハチに刺された対処法をスマホで調べ、動かない私を無理やり動かし、応急処置をしていてくれたらしい。刺されたのはたぶん、アブだそうな。
「ありがとう。痛かった」
「痛いしか言わなくなっちゃって困ったよ…」
「もう痛くないよ」
もう痛くない。
帰ったら撮った写真をプリントして、部屋に飾ろう。
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