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教育機関としての「蓮ノ空女学院」を考える

 蓮ノ空女学院。それは、『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』の舞台となる架空の高校であり、限りある時間の中で懸命に花咲こうともがく少女たちの過ごす学び舎。"架空の"とは言っても、本作は金沢市内にあるという設定だけでなく、物語の中に実在する名所が多数登場し、その中に登場人物が存在するという地域に密着した作りとなっています。
 先日、金沢に旅行した際に聖地・舞台となっているスポットを多数巡ってきました。その際に、現地の様子がカードイラストや活動記録などで忠実に再現されているのが確認できたのはもちろんのこと、現地で体感できた実在性の高さにはいたく感心しました。イラストや映像の中にいる蓮ノ空のメンバーが、その瞬間だけではなくその場で活動している。描かれていなくても、その土地で生活している。金沢の土地の上で地続きになっている、現実とバーチャルの連続性。そのような感覚になれる、設定や表現の緻密さと土地への理解を感じました。

 そうなると気になってくるのは、作品の主な舞台となる「蓮ノ空女学院」という学校がどのようなところなのか。架空の学校ではありますが、作品内で明示されている設定はそれほど多くないため、考察の余地があります。学校の敷地内は完全に創作でしょうが、敷地自体がどこにあるかということは金沢市内で活動する以上は重要な要素だと考えます。
 また、創立100年を超えるということも重要な特徴です。ご存じの通り金沢は北陸最大の都市であり、明治期には国立の高等教育機関である第四高等学校が設置されるなど早くから近代教育が実施されています。考察できる材料は少ないですが、そんな金沢の地で明治・大正期の女子教育がどのように実施され、蓮ノ空女学院がどのような変遷を辿ってきたか。それを探るのも学校を理解するのに役立つのではないでしょうか。





前提

 まず最初に。以下に記載する考察は空想・妄想・怪文書の類であり、何ら根拠が無いものであると明言しておく。また、把握できていない情報も多々あると思われるので、核心的な情報の欠落による致命的誤りがあるかも知れないがご容赦いただきたい。

 考察するにあたっての大前提として、公式が出している情報は当然ながら確定事項。ではその公式情報とはどのようなものか。概要としては以下の通り。

公式情報

  • 石川県金沢市から奥まった場所で、蓮の花の咲く湖の傍らにある

  • 全寮制の私立高校

  • 創立100年を越える(2024年度で104期)

  • 野生動物が生息するくらいの山の中にある

  • 市街から遠く、基本的な交通手段は週1回の送迎バスのみ

  • 芸術分野の教育に力を入れている

  • 芸楽部という部活動を前身としたスクールアイドルクラブが存在する

 これらに加えて、活動記録、カードイラストに描かれた様子、With×MEETSでメンバーが話した内容などから情報を拾って肉付けし、実際の金沢市の地理や歴史などを踏まえて考察していく。

 考察する対象は、「蓮ノ空女学院」の所在地と歴史について。学校の敷地内の様子や教育カリキュラムなどはあまりに情報が少なく考察のしようがないので今回は対象外とする。そもそも、”金沢におけるメンバーの実在性”を考えるのが事の発端のため、外部との関わりのある事項として所在地と歴史を対象とした。


考察1:学校の所在地について

 公式情報では「金沢市内の山の中」という程度しか分からない。また、市外の校舎をモデルにしているようだという特定情報からも、具体的な場所は設定されていない。しかし金沢市内で山と言えるエリアの中で、学校までバスが通行できることから舗装路が整備されている範囲に絞り込める(学校への往来のために現実には存在しない道路が整備された世界であるという可能性もあるが、ここでは考えないこととする)。
 加えて、全寮制であること、生徒数もかなり多く校舎や敷地も大規模なようであることを考えれば、食料品や日用品の搬入業者、敷地外に住む教職員の通勤など往来もかなり多いであろう。即ち舗装路とは言っても山道の細い道路ではなく対面通行できる程度には広い道路のはずである。このことから、候補地は概ね下図の赤い箇所となる。

 この中で、「湯涌温泉」が舞台として登場したことが無いため、湯涌温泉付近だとは考えにくい。逆説的に、舞台として登場することが多い場所の近くに学校(寮)が存在すると考えるのが自然であり、となればそれに合致する山は1つしかない。「卯辰山」である。
 見晴らし台、ふれあい広場など卯辰山が度々舞台として登場すること。CDジャケットの撮影地に奥卯辰山が使われていること。別の山中に学校があった場合にわざわざ卯辰山まで来るだろうか、ましてやFes×LIVEの舞台として使うだろうかという不自然さ。これらを踏まえれば、学校が卯辰山(あるいは奥卯辰山)あたりにあると推測できる。

 一方、卯辰山が「金沢市から奥まった場所」と言えるのかどうか。実際に現地を歩いてみた感覚から言うと、市街地から何kmも離れていないが浅野川を挟んで対岸にある地区は高層建築も少なく、一気に山間部の雰囲気が強くなるため、奥まった場所と言っても違和感は無い。卯辰山に登れば、見晴らしの良い場所からは市街地がよく見えて近く感じられるが、少し奥の方に入ると木々が生い茂り見晴らしも無いため、バスの車中で寝ていて急に降ろされたら山奥だと感じても不思議ではない。初めて蓮ノ空女学院に来たときの花帆の感覚と、卒業生であり周辺の地理も熟知しているであろう花帆の母の認識の齟齬はこの辺りに由来しているのではないだろうか。
 なお、入学当初に脱走しようとした花帆に対して梢が野生動物が出るので危険だと注意していたが、卯辰山でも実際に熊や猪の被害や目撃情報があるため、この点でも矛盾は生じない。

奥卯辰山健民公園の大池付近(2023)

 当然、他の候補エリアに存在する可能性は完全には排除できない。が、次のカードイラスト【喫茶ハスノソラ(夕霧綴理)】と【喫茶ハスノソラ(大沢瑠璃乃)】。瑠璃乃の方は金沢城の石垣や砂利道の状態から、明らかにお堀通り沿いのところ。綴理の方は特定できる情報が少ないが、この形状の街灯はお堀通りや紺屋坂辺りに設置されているので、同じく金沢城・兼六園周辺のはず。そしてこのカードのメッセージから、これはマラソン大会の様子を描いたものであることが分かる。つまり、蓮ノ空女学院のマラソン大会は学校から兼六園辺りまで走るコースが設定されているのである(学校以外をスタート・ゴールにしている可能性も無くはないが)。
 これを踏まえて、前述の候補地から兼六園までの距離を概算すると、卯辰山以外のエリアだと往復で軽く10kmを超える。女子高で、スポーツというより芸術分野に力を入れている学校だということを考えれば、そこまでハードな行事にはしないはず。卯辰山・奥卯辰山辺りであれば長くても往復10km弱なので、その程度であれば女子高のマラソン大会としては十分あり得る。

 もう1点。活動記録第5〜6話で以下のような描写がある。

  • さやかが3日連続で近江町市場の手伝いに行っている

  • フィギュアスケート大会の2日後、クラブの練習をした後リンクに行っている

 週末1回だけの送迎バスしか交通手段がなければ、この行動は当然不可能である。学校の近くに路線バスが通っていて利用できるというような描写も無い。自転車を使っている描写も無い。ならば、考えられる移動手段は基本的には徒歩しかない。
 卯辰山辺りからであれば、徒歩20分ほどでひがし茶屋街や橋場町のバス停に、徒歩30分ほどで近江町市場まで出られる(奥卯辰山からであれば+20分程度)。休日ならもちろん、平日でも4時前に授業が終われば、急げば市街地まで行って暗くなる前に戻ってくることも可能なはず。外出許可が必要ということになっているが、さやかは実績があるのでスケートの練習のために許可を取ることは容易であろう。というより、活動記録の諸々の様子を見るに、外出許可を取るのはそこまで厳しいものではない気がする。(それでも西金沢の健民スポレクプラザまで行くのは遠いと思うが、20分ほど歩いて春日町か田井町のバス停まで行けば乗り換えなしで最寄りのバス停まで着くので、思ったほど時間はかからないのかも知れない)

 が、卯辰山以外の山間部だとさすがにこうはいかない。例えば湯涌温泉辺りから金沢駅までの距離は約14kmもある。そうなると週末1回だけのバスで市街地に出る以外の方法が無いし、仮に路線バスが使えたとしても往復だけでそれなりに時間がかかるので頻繁に市街に出ることはできない。このような状況も卯辰山辺りに学校があるという推測の補強材料と言える。
 ひとつ疑問点があるとすれば、駅から学校までの距離が短いということは、バス移動の際に寝るほどの時間はかからないのではないかという点。活動記録第1話では、花帆は早朝から駅前に来て観光?して回っていたそうなので睡眠不足と疲れですぐ寝てしまった、ということだろうか。


考察2:学校の歴史について

2−1.沿革

 蓮ノ空女学院の歴史について明言されているのは創立100年を越える私立高校であるということと、2024年度が104期とされていること。その長い歴史を考察するにあたっては、現実の近代日本史を知ることが不可避であろう。したがって、これは日本の近代教育、特に女子に対する中等教育の変遷から記載する必要がある。
 大前提として1年ごとに1期ずつカウントしていったと考えると、学校の創立は1921年(大正10年)ということになる。現在の高等学校に相当する女子教育としては、当時は高等女学校令に基づく「高等女学校」が該当する。1920年には高等女学校令の改正があり5年制が基本とされ、入学資格は尋常小学校(義務教育・6年制)を卒業した12歳以上の者となっていたため、1921年創立の蓮ノ空女学院(の前身となる高等女学校、仮に「蓮ノ空高等女学校」とする)もこれに沿っているはずである。つまり設立当時は主に13〜17歳の女子を対象として5年間の中等教育を行う学校だったということである。
 その後、戦中・戦後には教育制度の大変動がある。1943年には4年制となり、1945年4月〜9月は授業が停止され、1946年には5年制に戻る。1947年4月には高等女学校の生徒募集が停止され新制中学校が併設、1948年4月には新制高等学校が発足。蓮ノ空高等女学校も、この1948年4月のタイミングで現在と同じ3年制の高等学校になり、名称も(同じ時期ではない可能性はあるが)「蓮ノ空女学院」に変更されたのであろう。
 ちなみに、この時併設された新制中学校は経過措置としての暫定設置だったが、私立では中学校として生徒募集を続け結果的に中高一貫校として残った学校も多いらしい。しかし蓮ノ空女学院に関しては中高一貫だという設定は無いようなので、併設の中学校は暫定措置の終了と共に廃止されたと考えられる。

 この内容をまとめると以下の通り。

  • 1921年(大正10年)…1期:蓮ノ空高等女学校(5年制)設立。

  • 1945年(昭和20年)…25期:4月から授業停止、終戦により9月から再開

  • 1947年(昭和22年)…27期:蓮ノ空高等女学校の生徒募集を停止。25期生及び26期生は併設された新制中学の3年及び2年に編入。

  • 1948年(昭和23年)…28期:蓮ノ空女学院(3年制高等学校)に移行。高等女学校の23期生及び24期生が蓮ノ空女学院3年及び2年に編入。新制中学を卒業した25期生が蓮ノ空女学院28期生として入学。

  • 1949年(昭和24年)…29期:新制中学を卒業した26期生が蓮ノ空女学院29期生として入学。併設の新制中学は廃止。

 過渡期とは言え旧25期生が新28期生になるというわけのわからない状態になってしまうが、学校側から見るとこのようになる。このように整理してみて分かるとおり、実は27期生は存在しない(新制中学の1年生になるため)ということになるが、23期生と24期生が在学していたため学校自体に空白期間があったわけではない。

 この後の学校の沿革は不明だが、恐らく学校の移転があったり、施設を拡充したり、50期・100期などの節目で記念式典があったりしたことは予想できる。明らかなのは、103期に第二音楽堂が新設されたことくらいだろう。

2−2.在学生・卒業生関連

 在学生・卒業生について分かっていることは以下の程度。この中で、学校の歴史という面で特に重要人物と言えるのは生徒会長を務めた大賀美沙知。生徒自治の特色が強い学校であり、詳細は省くが第二音楽堂建設にも関わったこともあり、学院史を編纂するなら必ず載ることになるであろう人物である。
 元々、この項で記載する内容はほぼ無いようなものだったが、百生吟子の祖母に関連する情報が出てきたことにより記載内容が増えた。今後、より詳細な情報が加わることを期待する。

  • 1964年(44期)頃:芸楽部発足

  • 1974年(54期)頃:百生吟子の祖母が入学、芸楽部に所属

  • 1990〜2000年頃?:日野下花帆の母が入学

  • 2010年頃?:芸楽部を前身としてスクールアイドルクラブが発足

  • 2010~2015年頃?:ラブライブ!全国大会優勝

  • 2021年(101期):大賀美沙知入学

  • 2022年(102期):乙宗梢、夕霧綴理、藤島慈入学

  • 2023年(103期):日野下花帆、村野さやか、大沢瑠璃乃入学

  • 2024年(104期):百生吟子、徒町小鈴、安養寺姫芽入学

2−3.敷地・校舎

 前述のとおり、現在の蓮ノ空女学院は卯辰山付近に位置しているのではないかと推測したが、創立当初からそうだったとは考えにくい。少なくとも、当初からわざわざ山の中に学校を置く必要性は無く、恐らく生徒数が増えたため校舎や寮を拡大する必要があり、広大な土地が確保できる現在地へ移転した……と考えるのが自然であろう。

 創立当時の校舎所在地に関しては推測できる設定が無い。ただ、1921年には国鉄と市電は通っていたが、他の交通機関は当然ながら現在ほど発達しておらず、市街から遠く離れた地域に学校を建てても交通手段が無い。また、同年に長町に県立金沢第三中学校が、小立野に金沢工業高等学校(金沢工業大学の前身)が開校しており、同様に市街に女学校を創立したということは十分に考えられる。ちなみに、金沢で市内バスが運行開始したのは1932年4月。創立当時はバスも無く、やはり市街から離れた位置にあったとは考えにくい。

宇都宮源平『石川県管内地図』内「金澤市街之図」の一部。大正9年(1920年)発行

 なお、1921年に設立された前述の県立金沢第三中学校は、後に県立金沢第二高等女学校と合併し卯辰山付近に移転しており、学制改革の際に「桜丘高等学校」に名称変更している。私立と公立、女子高と共学という正反対の性質を持つ両校だが、創立が同年であること、前身が高等女学校であること、(推測だが)校舎が卯辰山付近に存在することなど共通点も多い。ハスノソラとサクラガオカという名称にも何となく対照的なものを感じる。モデルというわけではないだろうが、考察の参考になるかも知れない。

 校舎の様子については、金沢には明治期に建設された学校が保存されているので、当時の様子を想像するための参考としていくつか紹介する。
 1つ目は旧石川県立金沢第二中学校。1899年創立のため蓮ノ空女学院より20年ほど早いが、木造の立派な校舎である。通りがかった際に外観を見たことがあるが、まさか活動記録で登場して聖地になるとは思ってもみなかった。次に金沢に行くことがあれば是非訪れたい。
 2つ目は旧第四高等中学校。こちらは高校相当ではなく大学にあたる高等教育機関で、1887年創立だが前述の第二中学校よりも更に立派なレンガ造りの校舎。さすがはナンバースクール、当時の日本において文字通り指折りの名門である。現在は震災で被害を受けたため入れないが、外観は入念に観察してきた。
 ただし、これらは公立のため立派な造りだったとも考えられ、私立はもっと簡素な、それこそ住宅を改装した私塾のような形だった可能性もある。創立時の蓮ノ空高等女学校はほぼ間違いなく木造。少なくともレンガ造りやコンクリ造りではあるまい。

旧第四高等中学校

2-4.その他

 金沢市内の高等女学校としては、北陸学院(私立・創立1885年)、金沢市高等女学校(公立・創立1898年)、遊学館(私立・創立1904年)に次ぐ4番目の、私立としては3番目の高等女学校ということになる。北陸学院は北陸唯一のミッションスクール、遊学館はスポーツが盛んで全国レベルの部もあるなど、それぞれ特色のある学校である。蓮ノ空女学院は一芸入試のような枠があるらしく芸術分野に秀でているということで、上記の実在する2校と同様に伝統と特色ある高校だと地域で認識されているのであろう。


結論

 以上、教育機関としての「蓮ノ空女学院」の所在地及び歴史について、公式の情報と実際の金沢市の歴史を結び付けて可能な範囲で考察し推測した。所在地に関しては、自分の中では「卯辰山・奥卯辰山周辺以外あり得ない」と考えている。しかし、長々と書いておいて自分で身も蓋も無いことを言うようだが、この考察が合っていようが的外れであろうが『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』の世界観、その中核をなす各メンバー、楽曲やリンクラ内での活動等には何ら影響が無い。
 とは言え、本稿を執筆するきっかけとなった【作品と現実との連続性】を理解するには大いに有用な試みであった。メンバーを金沢の町に生きる人間として捉えるには今以上に解像度を上げる必要がある。そのためには学校の位置、行動範囲、移動手段などを想像する必要があったわけだが、一応は無理や矛盾の生じない程度に現実に落とし込むことができた。制作陣も現実の金沢に当てはめて矛盾のないよう考証した上で設定しているのではないか、と感心する。
 また、非常に歴史のある学校であるという設定のためこちらも合わせて考察したが、日本の教育制度や金沢市内の実在する学校と照らし合わせて想像する他なかった。近代の中等教育の変遷を理解することができたため全く無駄だったとは言わないが、現在の蓮ノ空女学院に繋がる情報を見出すことはさすがに不可能であった。104期生・百生吟子の祖母が約50年前に芸楽部に在籍していたという設定が加わったため、今後更に情報が出てくるかもしれない。


参考文献

 金沢市の歴史を調査する際、金沢市図書館のWebサイトに恐ろしく詳細な年表が公開されていたため、これを大いに参考とした。本来であればこの年表の本編にあたる『金沢市史』も参照したいところではあったが、所蔵している図書館が近くに無いため断念した。石川県立図書館はもちろん所蔵しているため、また行くことがあれば閲覧したい。

石川県立図書館

 また、本稿執筆を考え始めた頃、時を同じくして蓮ノ空女学院と旧制高等学校との比較を詳述した記事がnoteで公開された。これを拝読したことも本稿作成に大いに影響したため、ここで紹介する。

(1)Wikipedia."高等女学校".(2024/7/25参照)
(2)金沢市史編纂審議委員会."市史年表 金沢の百年".金沢市図書館
(3)金沢市史編纂審議委員会."市史年表 金沢の百年 大正編".金沢市図書館
(4)七尾古写真アーカイブ."大正9年(1920年)金沢市街之図(金沢市)"
(5)土屋."【蓮ノ空感想文】旧制高等学校からみる蓮ノ空".note










 などと妄想を書き連ねているうちに、With×MEETSで蓮ノ空女学院に関する質問に答えるという配信が実施されました。アーカイブが見れるので詳細はそちらで把握いただければと思いますが、要約すると

  • 全校生徒数は360人前後、1クラス30人程度

  • 体育館や食堂なども含めると広大な敷地

  • 食堂と同じ建物の3階に図書室がある

  • 芸術と同様に学業にも力を入れている

  • 様々な芸術分野の外部講師を招いた授業を行っている

などの情報が明らかになりました。当然ながら金沢の土地と比定できるようなクリティカルな情報ではありませんが、逆に言えば上記の推測を否定できるくらいの具体的な内容でもありません。駄文とは言え長々と書いた記事が無駄にならずに済んだ……という安心感よりも、どうせならもっと詳しい情報が知りたいという気持ちの方が強いです。


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