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【始祖編】13.

 もはや娘のシェヘラザードが世間にどれほど恥をさらそうが、ファーロン・ボイドの心は動かなかった。
 娘の人生は娘のものだ。
 親とはいえ、自分以外の人間の生き方に口出しする権利などあろうか。
 子を矯正するのは親の義務と思われがちだが、ファーロンに言わせれば、年長者が若輩者を説教する楽しみの正当性に過ぎない。ましてシェヘラザードは、とうに行き遅れと後ろ指をさされる歳の成人だ。
 後妻だろうがなんだろうが、嫁ぎ先があるだけましというもので、娘が笑い者なら、その父親は咎人だ。すっかり厭世が染みついたファーロンの、内心にいだく氷塊は凍てついたままでどんな出来事にも容易に溶け出す気配すらみせなかった。
 シャフリヤールとて、養父に以前の活気を取り戻したい望みはあったものの、血の繋がらない自分にそれが適うと思えるほど、うぬぼれることができなかった。
 『セングレン家のスタブリス公に二度も婦女を奪われたスノードロップ家』との外聞はいかにも体裁の悪いもので、オルペ公はその恥によく耐え、兄より継いだスノードロップ家当主としての役を愚直ともいえる誠実さで果たした。
 それぞれの家の紋章になぞらえて、待雪草と白の雌牛の家紋を持つスノードロップ家ベニントン公爵を白雪公、青毛馬と百合の花の家紋を持つセングレン家レイントン公爵を黒馬公と呼びならわす俗称が巷に定着したのは、おおかたこのころだ。
 シャフリヤールが、息子シオン・ボイドの成長を待つあいだ、オルペ公は嗣子アリステアをはじめ子宝に恵まれ、シェヘラザードの産んだ男児ヒューイットも、公爵家子息として申し分のない生活を送った。
 先代エンドリュー公の隠居で、世捨て人のように日々を無為に空費する養父ファーロンのもとを、シャフリヤールは折にふれて訪ねた。
 養父がその話題を厭うのを知っていて、シャフリヤールはあえて義姉シェヘラザードの話題をたびたび持ち出した。
 すでにソロモン坊っちゃまを喪い、不貞の王女タマラを喪わせ、永久に溶けない氷塊を胸にいだいたファーロンが、ふたたび熱量を取り戻すことがあるとすれば、シェヘラザードがみずからの過去のおこないを心底から慚愧し、父親の前にその身を投げ出して詫びたときに限られる。他のなにをもってしてもその謝罪に代えられないというのが、養父と幾度となく言葉を交わしたシャフリヤールの見立てだった。
 ファーロンが頑なに口外を避ける娘シェヘラザードの話を、シャフリヤールに限って許すというのは、養子からすると少々の嬉しさ、喜悦を生じる。
 もはや先代エンドリュー公の余生にのみ、執事あるいは従者としての命をつなぐファーロン・ボイドの、この世限りに残心があるならば、血をわけた娘のことしかない。
 ファーロンにとってのシャフリヤールとは、後を託すに足りて、心配のいらない義理の息子にほかならなかった。
 およそ十年の歳月に、シャフリヤールはさまざまな光景を見た。
 ベニントン公爵領のカサブランカ城をすみからすみまで駆け回り、毎日のように笑い転げるスノードロップ家の坊っちゃまやお嬢様がた。仲睦まじい公爵夫妻。日々大人びていく息子。領地で糧を得る素朴な小作人たち。ナサニエル卿が遺された温室で育つ緑の植物の、枯れてはまた芽吹くを繰り返す、生命の循環……。
 過去を忘れていけるのではないかと願った。恨みの感情が光り輝く記憶に塗り替えられ、消え去っていくのではないかと夢想した。
 だがそれは、ファーロンの氷塊を溶かすのがシェヘラザードの後悔でしかないように、他では埋め合わせできないものだった。
 良いも悪いもどんなことも、きらめく光の粒子に彩られたような日常の中で、シャフリヤールは、何度も、何度も、祈るように願っていた。
 自分ではないうつくしきものになれるように。何事も赦し、受け入れ、あかるいところを歩ける自分でいられるように。
 冷たい雨に打たれる路地裏で、飢え、渇き、病み、虫けらのように野垂れ死する未来しか見えなかったあのみじめな時から、どれほど遠く隔たったとしても、一瞬で最底辺の過去へ引き戻される気がするのは、それがほかでもないおのれの原点だからだ。おのれはおのれ以外のものにはなれないからだ。

 シャフリヤールに十字短剣を取らせた理由があるとすれば、魂の求めに応じたからだ。
 息子のシオンはさいわいといおうか、特に容姿が父親とはあまり似なかったので、シャフリヤールを安堵させた。
 シオンは母親似だった。
 馴染みの娼婦を身受けして妻にしたとき、主家の事情を話していたからか、人のいい妻は不器量なシャフリヤールを疎んじるそぶりがなかった。
 先代エンドリュー公が隠棲して以降、シェヘラザードが後妻に収まったことで決定的に、スノードロップ家とセングレン家の交流はほぼ途絶えていたが、かつての僚友同士のエンドリューとスタブリスは、ごく偶に手紙をやりとりすることがあったようだ。
 貴族たちが王都で盛んに社交を繰り広げる季節、アルビオンに並び立つ両公爵家の当主たちは互いに近づく機会も多かったが、先代に比べてオルペ公との繋がりがうすいこともあり、スタブリス公のほうが遠慮するふうに見受けられたのは、やはり簒奪者の引け目と不名誉がそうさせるのだろうと、ひとびとの口に噂された。
 爵位を継ぐべき男児を産み、いまや公爵夫人となったシェヘラザードに、卑屈とも受け取れる夫の慎重な態度や周囲のささやきが不愉快に感じられたのは、ひとえに彼女の気質によるものだ。
 その日のシャフリヤールはオルペ公に従い、いずこかの貴族の町屋敷で催された夜会に参じた。
 同じく、夜会にはスタブリス公も招かれた。
 かの黒馬公の姿を見れば、スノードロップ家の者なら誰であれ、簒奪者がよくものうのうと、との思いは否めない。それでも、おそらく立場を重んじるスタブリス公ならオルペ公を害さない、という信用だけはかろうじて保たれていた。
 両公爵のそろう席上に、決まってオルペ公は夫人を伴わなかった。そのふるまいが臆病と誹られようが、いたずらにスタブリス公の罪状を増やすよりは上策、との割り切りは、オルペ公が元は修道士だったゆえだろう。
 主人の帰りを待つ各家の従者たちが、町屋敷の庭先あたりにたむろするのを離れて、シャフリヤールはひとり、暗がりに佇んでいた。
 むやみとスタブリス公を視界に捉えないためにも、人の出入りが頻繁なところをスノードロップ家の従者がうろつくのは拙い。
 年中、靄のかかる王都の夜空に、見える星は数えるほどだ。吐く息が白く染まり始める時節に、見るべきものもなく、焚き火を囲む連中の輪からも遠ざかったシャフリヤールは、常に懐中へ忍ばせた十字短剣を磨いて気を紛らせていた。
 異父兄弟のソロモンとダビデが半分は同じ血の流れる互いの若い心臓を貫き、執事ファーロン・ボイドが不貞の王女タマラを死に追いやった十字短剣は、先代エンドリュー公がお隠しになった。シャフリヤールが持つ短剣は、養父ファーロンに拾われてすぐのころ、形を似せて新たに複数を鍛えたものだ。長年使い込まれて痛んだ短剣はいくつも折れ、刃こぼれし、数本が手に馴染んだ得物として残った。
 幼いアリステア坊っちゃまは、短剣どころか剣術の稽古も嫌がるほどで、父親のオルペ公を悩ませておられるが、気性がお優しいのは悪いことではないとシャフリヤールは思う。傅役のシオンにはことのほか懐いておられるアリステア坊っちゃまのことなので、少年ながら武に秀でた手練れのシオンが説いて聞かせれば、幼子が我執を言い通すことはできなかろうとふんでいた。
 公爵家といえど、家族のありようは下々の民とさして変わり映えしないのだ。親は子を憂い、子には子の意思があり、ものごとがうまく回ることも、そうでないこともどちらもあった。
 ときにシャフリヤールは、セングレン家のことを思った。スノードロップ家から二度も奪った婦女を迎え入れ、二度とも子をなし、そして一度は妻子を喪ったかの家も、世にあまたある家庭をあまねく映したような姿なのだろうかと。
 思惟に呼応したかのごとく、夜陰に立ち現れた義姉シェヘラザードの姿にシャフリヤールは戦慄した。
 スノードロップ家の者とは長らく音信が途絶えたシェヘラザードは、夜会のために贅を尽くして装いを凝らし、暗中にあって公爵夫人の威厳を漂わせており、執事の娘として生まれついた境涯は、白粉と紅と大小いくつもの宝石と豪奢な絹で幾重に覆われ、塗りつぶされていた。
 そうまでして出自を消し去ったほど、妄執があらわれたとしか思えぬシェヘラザードの美貌に、化粧でも隠せない醜悪が混ざり合う顔つきは一種異様で、お互い歳を重ねた感慨どころか、シャフリヤールはただただぞっとした。
 シェヘラザードは色濃く婀娜めいた眉目を歪め、闇に鈍く光る十字短剣を一瞥した。
「ふたつの公爵家が双肩して並び立つとは忌々しいことよ。異教徒に穢された凶刃なぞ、我が旦那様の髪のひとすじにも及ばぬ」
 こうまで憎む相手が義理の弟だとすら、彼女は知らないのだろうか。知ろうが知るまいが、シェヘラザードには無意味だ。レイントン公爵夫人に、悪魔から生まれたような醜形の義弟がいてはならない。
 見えすいた挑発だと分かっていたが、短剣を握るシャフリヤールの、加齢とともに脂気を失い皺んだ赤銅色の皮膚の下で、怒りに血肉がざわついた。
 スノードロップ家の執事にして白雪公の従者が、その役の矜持をもって自身を押しとどめていることに焦れたシェヘラザードは、紅を塗った唇を憎々しくまくりあげ白い歯のならびをのぞかせて吐き捨てる。
「家畜にも劣る娼婦に生ませた子に、公爵家の跡取りを育てさせたのか。どんな賤しい生まれかしれない、路上で拾われた悪魔の子に刃を握らせ、そばに置いた公爵が、我が旦那様と等しいなどとそのようなこと、ありえぬわ」
 ―― はじめから、白雪公の、スノードロップ家の、弥栄《いやさか》を奪ったのはおまえたちではないか!
 シャフリヤールは、おのれへの愚弄なら耐えられたかもしれぬ。だが、妻子のこと、主人の公爵とその御子を侮辱されては、もう駄目だった。
 たしかに、獣のような生まれだ。悪魔の子とさえ呼ばれた。そのことから逃れることはできぬ。おのれは混沌から生じたのだ。おのれは、おのれにしかなれぬ。ならば、素性に従うべきだ。懐かしい混沌に倣い、獣に立ち返るのだ。
 シェヘラザードは素性を恥じ、自分がどこから生じたのかを消し去ろうとした。自分ではないものになろうとした。その果てに王女タマラの不貞を助け、父ファーロンに背き、スタブリス公におもねったなら、スノードロップ家の禍根は彼女のいびつな了見で引き起こされたことになる。だとしたら、シャフリヤールが義姉を許すことはできないのだ。
 短剣が振りかざされると、シェヘラザードは悲鳴をあげた。あれほどの口をきいておいて、無事にすむと思えた心情はまったく計り知れない。
 短剣を構え、身を低くして前に飛び出したシャフリヤールの行く手に、突如として大きな影が立ちはだかった。
 シャフリヤールは咄嗟に短剣を横に払い、自身も影をよけて横っ飛びに足を捌く。二度、三度と短剣は影に斬り込み、張りつめた肉と血をしかとえぐった手ごたえを得たあと、刃物の硬い感触に拒まれた。
 鋭い金属音に跳ね返され、裂けた衣の裾をたなびかせたシャフリヤールは、よろめくように退き、間合を取った。
 シェヘラザードとの間に立ちはだかった影の正体、斬り込んだ短剣が急所を捉えたのは、腰の帯剣を抜いたスタブリス公だった。
 鍛えられた体躯に長く衣を流したスタブリス公は、暗闇でまさしく影のようだ。その漆黒の衣装からのぞく白皙には、首筋から鮮血が噴き出していた。利き手に構えた帯剣をシャフリヤールに向け、もう片方の手で首筋の傷口を押さえているが、あとからあとからあふれる血が指の狭間に滴り、衣を重く濡らした。背後ではシェヘラザードがなにか叫び続けていたが、それには応じず、対峙するシャフリヤールだけを真正面に見据えた。
「二度として、我も妻を奪われるわけにはゆかぬのだ」
 スタブリス公は、奪われる、と言った。
 スノードロップ家は、二度にわたってスタブリス公に婦女を簒奪された立場だ。それを裏返せば、スタブリス公はすでに一度、スノードロップ家の執事ボイドの手により一人目の連れ合いを喪い、そして最初の男児さえも亡くした。いま一度、ここでシャフリヤールが義姉を討てば、かの黒馬公の夫人は二度ともスノードロップ家の者に葬られることになるのだ。
 スノードロップ家の者が、スタブリス公に「奪われた」というなら、公もまた、執事ボイドに「奪われる」ことになり、両者の背負う悲劇は均く等価であった。
 スタブリス公の握る帯剣の切っ先は、血をまといつかせていた。かろうじて撫で斬りにとどめた脇腹を押さえ、こめかみに冷たい汗を浮かせたシャフリヤールは肩で息をついた。致命傷は防いだとはいえ、これ以上の踏み込みは無理だった。
 泣き喚いて取り乱すシェヘラザードに支えられ、背を向けたスタブリス公の後姿が遠ざかると、シャフリヤールも失いかかる意識を叱咤して、白雪公の馬車のほうへ歩いていく。
 傷は浅かったが場所が悪く、馬車にたどり着く前、腹部からの出血で何度目かに地へ倒れ伏しそうになったところで、シャフリヤールは主人のオルペ公に発見された。
 修道院に担ぎ込まれる傷病人の扱いに慣れたオルペ公は、手近の奴婢に金貨をとらせて酒と晒布を持ってこさせ、シャフリヤールに応急処置をほどこし、すぐさま馬車を駆って自邸に戻った。
 その後も、医者が着くまでに、傷口を手ずから縫い合わせたオルペ公の尽力で、シャフリヤールは命拾いした。
 一方、スタブリス公は、手の施しようがなく一晩痛みに苦しみ抜き、こちらは翌朝になって息を引き取った。
 スタブリス公は最後の最期、今際のきわまで繰り返し、この諍いを世に知らせれば御家の不名誉の上塗りになると夫人のシェヘラザードに言い聞かせ、けして他言しないよう説き伏せていたという。
 遺言どおり、スタブリス公の死は、不慮の事故に負った深手によるものとして、粛々と埋葬された。
 快復したシャフリヤールは、生涯の終わりまで立ち歩くのに杖を要したが、息子のシオンが執事の役の半分を肩代わりすることで、白雪公の御家は安んじた。
 未亡人となったシェヘラザードは、故スタブリス公の遺言こそ守ったものの、遺児ヒューイットに父の死にざまを何度も何度も語って聞かせ、執事シャフリヤール・ボイドへの、ひいては白雪公スノードロップ家への怨嗟を吹き込んだ。
 シェヘラザードの怨念が成就するのは数十年のちのことで、爵位を受け継ぎ、セングレン家当主となった黒馬公ヒューイットは用心深く、杖なしではままならぬ体のうえ老齢にさしかかり衰えたシャフリヤールを狙いすまして、父の仇を討ち果たしたが、このとき白雪公アリステアが、老執事をかばって身を挺するという埒外のできごとに、シャフリヤールもろともアリステアの命も奪う惨状となった。
 幼いころから心優しくあられた白雪公の遺骸を腕に、シャフリヤールの死は臓腑がちぎれんばかりに悶え苦しむ中での無慈悲なもので、シェヘラザード先代公爵夫人は大いに溜飲を下げたといわれる。
 そのシェヘラザードは未亡人となってから幾人かの庶子をもうけ、中年期には某伯爵と再婚し、かの人の子も産んだと今に伝わっている。

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