アルバイトがしたい! その1
東京は今、雨がすごいんだそうだ。
抜けるタイミングを失ったままの、前職場のグループLINEで、「雨がすごいんで今みんなで池袋のビックカメラで雨宿りしています」というトークがぽんと届く。今日はみなさん、シュラスコを食べに行くらしい。
トーキョー、シュラスコ、池袋は豪雨。
いっぽう、こちらは晴れている。ガラ空きのコメダ珈琲でひとり、なんもせずにぼうっとしている。シュラスコが、はてしなく遠い。
春から半年間、飛行機に乗って通った服部真里子さんの短歌講座が終わってしまって、わたしはついに、目下の「予定」というものをなくしてしまった。
今までも暇だったわけだけれど、それでも月に一度、凍狂にゆくという立派な「予定」があったのだ。凍狂には家族がいて、友だちがいる。ゆけばみんな喜んで会ってくれた。
次の予定があるのは二週間以上先である。これもまたあたらしく通いはじめた短歌のワークショップなのだけど、こちらは岡山。さほど遠くない。しかしこの予定がなかったらと思うと恐ろしい。年内の友人の結婚式をのぞいて、来年の春まで予定がない。
来年の春からは、また教員生活がはじまる。
そう、なんと受かってしまったのだ。家から近いしと気軽な気持ちで受けた採用試験に。社会、というかもっと具体的に縁あってその学校に「よかったらうちで働きなさいよ」と言ってもらえたことはなんてったって承認だ。わたし、必要とされたんだと思うと生きる気力が湧いてくるってもんである。
しかし半年後はまた「学校のなかの人」に戻ることを考えるととほうもない、しんどい気持ちに息が浅くなってしまう心地ではある。けれども。なんと言おうとこれも自分で決めたことなのだった。決めたのはわたしだ。わたしが決めたのか、そうなんだっけ。そうだ、誰からも強要なんてされていないのよ。もっとほかに、仕事はたくさんあるのにな。あたらしい職種の仕事をやってみてもよかったのに、なぜかまた教員になることを自分で選んだのだ、わたしは。色々とその理由を説明することはできるけれど、でもほんとうのところ、自分でもよくわからない。わからないけれどやると決めたのだから、また大きな理由もないかぎりは、しばらくは続けることになるだろう。
さてしかし。来年の春までは暇なのだ。毎日コメダに来ていては家計に響くし夫にも悪い。とはいえ家にひとりでいるとたまに発狂しそうになるものだ。外に出なくては。だからアルバイトのひとつでもはじめたいはじめたいとずっと思っているのにそれができない。以前からこの話ばかりをずっとしてる気がするけれどまだ勇気が出ないのだ。アルバイトをはじめる勇気っていったいなんなのかわからないけれど、とにかくドキドキしてしまっていけない。今日もコメダに来るまで、自転車を走らせながら居酒屋やパン屋などここはどうかあそこはどうかと思案しながら来たのだけど。その門戸をひらく決め手がない。
人と、有機的な関係を築きたい。なんだ有機的な関係って。というかシンプルに、人とはなしがしたいのだ。それがアルバイトをしたい、おおきな理由である。
人との会話といえば今日、おとなりの方がうちを訪ねてきてくれた。以前梨のおすそ分けをしたのだけど、そのお礼ということらしい。2、3分立ち話をする。左足でドアが閉まらないようにしながら、これが、これが夢にまで見たご近所さんとのやりとりというやつではないか…とわたしはひそかに感動していた。おとなりさんは「困ったこととか、分からないことがあったらいつでも言ってくださいね」とおっしゃった。梨を、いくつか渡したら、話ができた。文字通り、ドアをノックして、あいさつをして、それで、話をした。 そうしたら、今度はあちらからコンコンとドアを叩いてくれたのだ。「この前はありがとうございます」と言って。そこには文脈がある。お互いに共有できる「この前の記憶」。ああなんて有機的。ああこれぞ、人間関係。
他においてもそうなのだろう、ドアをノックして、あいさつをすれば、開けるかもしれないのが関係、というものだ。すこしの勇気。すこしの勇気とあとはすこしの決断力さえあればアルバイトが決まる日も近いはずだ。
それにしてもなんてとりとめがないのだろう。とりとめがないとはまさにこのことで、とりとめのないことを書くことにかんしてわたしは結構いい線いっているはずである。「暇だ。アルバイトがしたいが決められずぐずぐずしている」ただそれだけのことを、こんなに長々と書けることもひとつの才能ではなかろうか。
凍狂の雨はもう止んだのだろうか。前職場の先生方は雨に濡れた肩をあげたり下げたりして、笑い合いながら、シュラスコをほおばって、いるだろうか。
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