今日のこと
植本一子の新刊が出ると知ってから即予約、していたものが昨日届き、読み始めたらやっぱり止まらないのだった(『台風一過』)。日記として日々を記録することの意味をものすごく考えながら読んでいる。終わってほしくないと思う本はそんなにない。ずっと書いてほしい。
今日あったことをどれくらい、私は書けるだろうと思って書いてみている。
今朝は夜中からの雨がほぼ止んだと思って、ふだんは朝、職場まで夫に車で送ってもらっているところ、授業変更で午前中で仕事が終わること、某締切が近いこと、夫が空手の稽古に行くので遅くなることもあって自転車で行って帰りにコメダでじっくりいろいろやろうと考えていた。「今日自転車で行くね」と夫に伝えると「え〜一緒に行かないの〜?」と言われる。
最近朝はほぼ食べないのだけど、二人分のお弁当と夫の朝食用と思って朝で食べきるつもりで炊いたご飯がほんのすこし余ったので自分も食べた。昨日のニラ玉がおかず。夫は朝ドラを楽しみにしている。私は食べ終えて朝ドラが始まるタイミングで身支度のため洗面台に立つので離れたところから切れ切れの広瀬すずの声を聞いている。
傘を持たずに家を出たが途中で霧雨になる。職場の手前の信号で同僚の先生に会う。眼鏡が雨で濡れていて恥ずかしい。その先生は徒歩で来ているみたい。
今日は3コマ続きの授業で、でも空きコマがあるよりポンポン続けてやるほうがじつは疲れずにいいのかもしれないと最近思う。昨夜から緊張して、今朝も早めに目覚めてしまったのは今日の授業でこの学校の生徒たちとはじめて哲学対話をするからなのだった。哲学対話については専門の夫のブログに明るいので知りたい方はぜひ(http://p4c-essay.hatenadiary.jp/)。
ある問いについて、そこにいる人たちと輪になって考える、話すことがそうだと思ってやっているのだけど各クラスで事前に決めておいた問いのそのすべてが「死んだらどうなるか」だったのには驚いた。授業で扱った小説を読み終えて、そこから考えた問いだったので祖父の死が描かれた作品ということをかんがみれば確かに死についての問いを考える生徒が多いこともわかるけれど、ほかにもいろんなテーマで候補になった問いをすべて押しのけて全クラスが同じ問いをそれぞれ選ぶのはなんだか妙なちからを感じる。明日この問いをみんなで考えるからね。お風呂の中とか、寝る前とかぼんやり考えてきてねと言っていた。
教室に対話で使う毛糸でできたボールをもってゆくと、それだけでわー何それー?と注目される。
輪になって、アイスブレイクで死ぬ前さいごに食べたいものは何か、について一人ずつボールを回しながら話してもらう。となりに座った生徒に「二つでもいいですか?」と聞かれ、いいよいいよ全部教えてと返す。私はクリームソーダと答えた。ケンタ、とか焼肉、とかおなかに優しいもの、とか色々だった。全部並べてみんなで食べたい。 みんなボールをまるで爆弾かのように高速でとなりの人に回すので、「爆発しないから大丈夫だよ、ゆっくりで」と言うとすこしわらっていた。
「死んだらどうなるか」と黒板に書いて、話し始める。
私は死んでも何も変わらないし世界は私を置いてただ回り続けるのだと思っているけれど、死後の世界の有無について話してゆくと「ここが死後の世界じゃないなんてどうやったら分かる?」とだれかが言う。ほんとだね。いつだって「今、ここ」がすべてだと、基準だと思って疑わない。ほんとうはこここそ、死後のあたらしい世界なのかもしれないのにね。死んだ人を悲しんでいる。もう会えないと思っている。
「何度だって、同じ私として同じ人生をやり直して繰り返しているのでは?」という意見も出た。そうしたら、私の意志やあなたの感情も、すべて決まったことなのかなあ、なんてみんなで考えた。そういう設定のゲームなんだよ、と生徒は言っていた。
「ここが死後の世界だったら怖いーー!!」と言ってみんなでゾッとしたことが、なんだか私は救いだった。嬉しかった。あたま掻きむしりたくなっちゃうよ、と言って掻きむしる真似をしたら、ものすごくわらった人がいた。ものすごくわらってくれたことを、おぼえていたい。
教室に入る前は緊張していたけど、一応無事に終えることができた。毎回授業後に大福帳にコメントを書いてもらっているので、もしかして嫌な気持ちになったらそこにも書けるようにしていたのだけど、特にそういうコメントはなかった。書かなかっただけで、秘めている人もいるかもしれない。いるかもしれない、ということを忘れずにいたい。
雑務をおえて、自転車でコメダにゆく。
雨はすっかりやんでいて、でもだからかすこし肌寒い。襟のつまったカーディガンに足の開きにくいタイトスカートを履いているので自転車が漕ぎづらい。こんな格好したくないなと思う。先生すぎる。
コメダはおやつどきとあって混んでいる。この田舎にコメダがあってよかった。なかったらどこにも、長居できるカフェも喫茶店もない。コメダはどれだけいても飲みものを下げられることも、嫌な顔をされることもない最高のホスピタリティなのでそれに乗っかって本当に毎度いつまででもいてしまう。もうおそらく顔も覚えられているはずだけど、いつもありがとうございますと言われたことは一度もない。それでいいな、それがいいなと思う。毎回お一人ですか、禁煙ですか、と聞かれる。それがいい。
今日ははじめてストロベリーシェークをたのんだ。ほんとうにピンクの飲み物だ。飲み物は絶対に色がついているのがいい。明るい色の飲み物が好きだ。だからメロンソーダが好き。ストロベリーシェークはいちごと、ソフトクリームの味がする。いちごとソフトクリームを混ぜているのかもしれない。美味しいけど、すぐに飲まないと溶けてしまうから急いで飲んで、でも飲み干したら居づらいなと思って1㎝だけ残す。この1㎝は犠牲だ。
次の授業の予習をすこし進めて、また『台風一過』を読んでいた。まだ1/4もいってないくらいだけど、読み進めるのが惜しい。
隣の席にいた親子連れが、帰り際「うるさくしてすみません」と謝ってきた。そんな風にはまったく思わなかったから、そんなこと!全然全然!と全力で否定しておいた。でもお母さんは厳しくて、じっとしていられない子どもを何度も叱って「それならもう車だね!車行く?」といいつけていて、一人で車にいるのは嫌だよね、とその子の顔を何度か確認してしまったから、うるさいと思ってる、と思われたのかもしれない。そんなことないのにな。
コメダ特有のボックスになっている席の向こうから「やけえ、もうひとりの田中さんはセーシン障害よ」と聞こえる。「もう一人はアルバイト」なんだかかなしい。言い方がかなしくていやだ。
この土地の人たちは、「〜だから」を「〜やけえ」と言う。
今日の哲学対話でも、ずっと小声で話していた生徒が黙ったかと思うと急に大きなで呼吸とともに「やけえ!!」と口にしたのでびっくりした。やけえ。
じゃけえ、とも言う。私はまだ使ったことはない。でもなんとなく、ほんとに少しずつ傾くように、こちらの言葉が馴染んできている感じもやっぱりすこしする。
向かいの大学生二人は、片方が壁にもたれて眠っている。席の横にリュックが置いてあって、サイドのポケットに髭剃りが入っている。夫が使っているものと似ている。髭剃りは、夫がするその音よりも父が朝早くに剃っていたその鈍い電動の音が私にとっての髭剃りの感じ。
もう一人の大学生はうつむいてスマホをさわっている。手に乗せたスマホと覗き込む顔がほぼ平行。
プリントにほぼ覆いかぶさるようにして机に顔がつくくらいの近さで書く生徒もいるけど書く姿勢はそれぞれで面白いと思う。自分はどんな姿勢で書いているだろう。
これを書いているあいだにもう隣のひとも、向かいの大学生も、席の向こうのおばさんもいない。
帰りに今日こそシャカシャカチキンが食べたい。生徒に会いませんように。
この町に来てから、自転車の帰り道がすきだ。まっすぐで、広くて、平らで、人もいない。ずっと両手離しでもぐんぐん進めるような道をあえてゆっくり漕いでかえる。自転車の、それも帰り道にだけ、よく短歌のフレーズをおもいつく。以前、「行きよりも帰りのほうが心地よいこの町を少しだけ好きになる」という歌をつくって、それはほんとうにこの帰り道におもいついたものだった。その歌を含めた連作で、次席をもらってとてもうれしかった。
この町はぜんぜん、日が暮れない。ほんとうに日が暮れない。長いなんてもんじゃない。ずっと明るい。そのことも、とてもうれしい。ずっと明るい町なんだなと思って、そう思うだけで少しだけいつも元気になれる。相変わらず東京は遠い。
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