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松岡修造と飴色たまねぎ

母から「おばあちゃんに米寿のお祝い贈ってあげて」とLINEが来たのは3週間ほど前だったか。

そもそも祖母の誕生日を知らなかったし、祖母はずいぶん前からずっと「おばあさん」なのでいくつになったかも知らなかった。米寿と聞いてそうかそんなにマジでおばあさんだったのかと気づく。

「おばあちゃんへ」とこれまで何度となく書いてきたはずの、そのすべて一文字ずつのひらがなが、いつまで経ってもいびつ。バースデーカードと銘打った見開きの真っ白な厚紙に、実は書くことが思いつかず自分の近況などを報告してしまう。

今年教えているのは中学生で、中学生は授業中に寝ません。全員前を向いているよ。全員前を向いてわたしの話を聞いています。変ですね。おかしいですね。わたしはもう何度も叫びだしたくなって、そのたびに彼ら彼女らの頭のあたりをじっと見て、口をへの字に曲げて笑顔のようなものを投げかけます。

カードの他には、最近の自分たちの写真も添えた。その報告を母にしたら、もう子どもじゃないんだからなんかお菓子とか、贈りなさいよと言われてけれども祖母に何を贈ったら喜ばれるのか見当がつかないのでやっぱりとくに追ってモノを贈ることはしなかった。それにしても自分の写った写真を送って喜んでもらえるだろうなんてこと、親を飛び越えてやはり祖父母に対してしかできないような、ここでワタクシお得意の自意識は発動しないのだった。おばあちゃんなら、わたしの写真を喜んでくれる。この確信は、なんだかどうして、自分の輪郭を強くするような力がある。

お祝いというよりはこちらの近況報告に終わったカードと写真を投函してからほどなく、祖母から電話がかかってきた。

祖母の声はいつものようによく通り、プールに通う毎日の話や送った写真の感想などとともに、しかし同時にその電話の向こうではテレビの音が聞こえてきて、それがこちらに寂しさとしてやってきて、かなしい。
そのまた数日後、「内祝い」とのしのかけてあるチョコレートがどんと送られてきて、カードと写真しか送らなかったのにとやっぱりすこし後悔した。

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働きだしてからかれこれ一カ月が経つけれど、働かないで自らを幽閉していた丸々一年その日々よりも、少しだけしんどさが減ったような気がする。引き伸ばし引き伸ばしの毎日ではなく、その夜毎朝毎に明日が、明後日が、週末が、次の季節が待ち遠しい。働く日々は、明日を待てるわたしの気持ちに通ずるのだと改めて知って、そのことが嬉しい。

「中学二年の担当をよろしくお願いします」

とあたらしい学校のあたらしい教科主任に言われたときはおおおはじめての中学生…と生唾ごくごく状態だったのだけど、中学二年生。
自分の中二時代を振り返れば、思春期自我大爆発のまさにさなかで、しかしスポーツは苦手、となると思考はあたまの釜で煮えるばかりで思うこと考えることを自分の日記と、友だちとの交換日記に吐き出すことで自分をなんとか保っていた。
それでもやっぱり心のよりどころが欲しくて、友だちが嵐のファンクラブに入るように、わたしは松岡修造をわたしの神様にした。スクールバッグの裏底にポスカで「ニノLOVE」と書く友人のそばでわたしは美術のレタリングの授業で習った明朝体で「松岡修造」と書いた。それだけでは飽きたらず机にもシャーペンで同じように「松岡修造」と、それも一文字手のひらほどの大きさででかでかと書いた。お前が松岡修造なのか。

一年ぶりに教壇に立って、見わたすひとりひとりの、14歳の彼ら彼女らをわたしはどのように知ることができるだろう。彼らはとても従順。しかし本心ではこちらをあしらっているからであると、それは装いなのだと思いたい。

それでも毎授業後にタタッと教卓までやってきて、テトリスの面白さと奥深さをとくとくと語ってくれる男子生徒や、放課後近くの図書館で読書しているところに、二人組で顔を見せに来てくれる女の子たち、そのまだ名前を覚えきれない一人一人と話すたび、ただわたしはへらへらと喜んでしまうのだった。愚かでごめんと心のなかで叫びながら。中学生を前にして、心のなかで叫びっぱなしであることも利口な生徒たちにはばれているんだろう。あなたたちの神様はだれ。すこしだけ不安げな表情。

そんなことを思いながら野球中継を横目で見つつ、今日はどうやら関東も雨だったようだけど、こちらも一日窓の内側からは見えない雨が降っていた。

われわれの愛するベイスターズは延長10回ののちに負けてしまったけれど、中継の攻防を聞きながら読む、『亡命ロシア料理』が面白い。友人から貸してもらったもの。

「いい料理とは、不定形の自然力に対する体系の闘いである。おたま(必ず木製のでなければならない!)を持って鍋の前に立つとき、自分が世界の無秩序と闘う兵士の一人だという考えに熱くなれ。料理はある意味では最前線なのだ…。」

真っ白な新玉ねぎが、どうしたら画像で見るようなしなしなの、クチャっとした茶色いペーストになるのだろうか。焦げ、というのでもなく全体的にブラウンで、文字通りその劇的なビフォー/アフターには首を傾げるしかない。だってかれこれ体感としては30分ほどはこの体勢でわたしは玉ねぎを炒め続けているのに。玉ねぎは依然よく見ても透き通ったベージュというところで、そのかさも色も、同じ工程の末にできるというその飴色玉ねぎとは別物であった。

そうなるだろうと思っていたけど案の定、仕事復帰してから毎晩の献立を考えることが億劫になって、週末を何も考えずに迎えられるよう水曜日あたりに鍋いっぱいのカレーを作ることを思いついて重い腰を持ち上げる。そこでわたしの往生際が悪いのは、どうせなら美味しいほうがいいだろうと三日分の動力をこめて飴色玉ねぎを作ろうとしてしまうところ。

いつまでたっても飴色玉ねぎができない、と泣き言をツイートしたところ優しきフォロワーさんたちが「レンジで予めチンして火を通しておくといいですよ」とか「ずっと炒めなくても、多少放っておいても大丈夫」とか飴色玉ねぎにおけるかくも的確なアドバイスをしてくれて、わたしは泣いた。

泣きながら思い出すのはかの松岡修造の御言葉である。「100回叩けば開く扉があったとする。人ははじめからそのことを知っていれば100回叩くが、そうと知らなければ99回でやめてしまうかもしれない。運命の扉はいつ開くか分からない。だから叩き続けろーーー」
彼の言葉が淀みなく、湧き出てくる。身体が覚えている。

俄然木べらを握る手に力はこもる。

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眠る前、夫はおこっていた。
時代が変わったってほんとうには、何も変わっていないのだと言って静かにしかし怒っていた。わたしは、なんだか嬉しくてああ平成が。ああ令和に…!なんてその瞬間、じっと時計を眺めていたりしたけれど、でも、平成に置いてきてしまった人がいること、ここに来れなかった人のことをどうしても考えてしまう。置いてくる、なんて傲慢かもしれないけれど、でも一緒にこの日を迎えることができなかった人が、いる。

遠く離れた祖母に対して、あるいはまた目の前の中学生に対して、わたしは何ができるのだろうと考えるより何ができないのだっけと思いつくほうが早く、どうすることが嬉しいことなのか、考えるたびもうどうして、どうしてこんなに泣きそうになる。

ずっと前からいつもとても幸福で、そして同じだけかなしい。不安だ。どちらにも同時に引き裂かれながら自分の存在を感じることがやっとできる。

ゴールデンウィーク明けの授業で、松岡修造がわたしの神様であったと、生徒たちに話してみよう。いや、あなたは神様なんか作らなくても、あなたに生身の、あなたを真っ直ぐにまなざしてくれるだれかに会えますように。あなたを支えてくれますように。

だってほんとうは、松岡修造だって今も昔も神様なんかじゃなく、彼は一個の存在だった。そのことに気づいてはじめて、わたしはすこしだけ世界で呼吸をすることができた。

そう、彼の言う通り諦めければつい数秒前までなんの変化もなかったはずの玉ねぎが、飴色になる。
しかしもし玉ねぎを飴色にできなかったとしても、それはそれで高貴な妥協なのだと思いたい。叶わなかったことも、叶わなかったこととして、大事にしたい。諦めたことは諦めたこととして、それもわたしのものだ。

中学二年生のわたしは、自転車を片手でこぎながら、目の前がまっすぐな道で嬉しい。左のブレーキが効きすぎる。急に道が狭くなって嬉しい。両手でしっかりにぎる。


#エッセイ #コラム #日記

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