見出し画像

死んだ人からの意見

 エッセイ連載の第29回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 今回は読んでいただくのが申し訳ないのですが……。

その瞬間、本望ではないことに気づいた

 海で死ぬなら、本望だと思っていた。
 本気でそう思っていた。
 とその人は言った。

 ところが、海でサーフィンをしていて、転倒し、サーフボードが自分の顔に向かってきたとき、死にたくないと思った。顔をかばった手が大きく切れて、ずいぶん血が出たが、命に別状はなかった。死ななくてよかったと、心底思った。

 あのとき──ボードが自分の顔に向かってきたとき、海で死ぬのは本望ではないと気がついた。
 とその人は言った。

 サーフィンをするために宮古島に移住までした人だ。
 私はこの話を聞いて、とても感動した。

「あいつもきっと本望だよ」

 もし、この人がそのときに亡くなっていたら、家族や友人たちは、悲しみながらも、
「海で死ねたんだから、あいつもきっと本望だよ」
「そうだよな、いつもそう言ってたもんな」
 などと言い合っていたことだろう。
 そんな死に方にあこがれる人もいたかもしれない。

 しかし、実際には当人は、死ぬと思った瞬間、ぜんぜん本望じゃないことに気づいたのだ。

 これは、たまたま生きていたから、じつはこうだったと聞くことができたわけで、死んでいたら、聞くことができない。

生きている人間だけではバランスが

 私たちは、死んだ人たちの思いや意見をまったく聞くことができない。
 あたりまえのことだが、いつもこれが気になる。

 この世のことが、生きた人間だけの考えで決まっていくなんて、ひどくバランスを欠いた、一方的なことに思えてしまうのだ。

 生きている人たちというのは、まだ一度も死んだことがない人たちだ。
 つまり、そうとうラッキーな、選び抜かれた人たちだ。
 というのも、人間というのは簡単に死ぬからだ。
 中学のとき、ひっきりなしに車の通る道を自転車通学をしながら、いま、ちょっと横に倒れただけで、車にひかれて死ぬわけで、それって簡単すぎないかと理不尽な気がした。

 とにかく、そんなに死にやすい人間の中で、生きている人というのは、幸運なのだ。
 そんな幸運な人たちだけで、物事を決めるなんて、なんとも危なかしい。
 宝くじに当たったことのある人たちだけで、マネープランを立てるようなものだ。

ぜひ聞きたいのに

 死んだ人の意見がぜひとも聞きたい。死んだ人の意見も取り入れることができたら、きっともっとずっとましな世の中になるだろう。

 といっても、聞くことはできない。それどころか、想像することもできない。何事も自分で経験しなければ、本当のところはわからない。勝手に想像すれば、落語の『らくだ』のように、死者を勝手にあやつって踊らせるようなものだ。

 じゃあ、死にかけた人たちに話を聞けばいいのか?
 残念ながら、それもダメだ。死にかけて死ななかったのと、死んだのとでは、ぜんぜんちがう。
 死にかけたのに死ななかった場合、むしろより選ばれた人間という意識を持つことも少なくない。ピンチを切り抜けた人間のほうが、よりピンチをおそれなくなるように。

 実際、事故や病気で死にかけた人の中には、
「自分は死を恐れなかった」
「不思議なほど平常心でいられた」
「生きるのも死ぬのも同じだと思った」
 などと語る人がけっこう多い。
 だがこれは、虫に変身したグレーゴル・ザムザが仕事に行こうとするように、突然の変化にまだ気持ちがついていかなくて、それまでの日常感覚が持続しただけだ。

「海で死ぬのは本望ではないと気がついた」と語った人は、死への覚悟があったからこそ、すぐに気持ちが動いたのだろう。むしろ、珍しい例だ。

こんなことが書けるのは

 つまり、本当に死んだ人の意見でないと意味がないということになり、そうすると、それは聞くことができないわけだから、そんなことを言ってみても意味はない。
 ここまで読んできたのに、なんの意味もなかったわけだ。でも、そういう無意味なことでも書けるのが、エッセイのよさだと思っている。



もしおもしろいと思っていただけたらお願いいたします。 励みになりますので。 でも、くれぐれも、ご無理はなさらないでください。 無料掲載ですから。