死んだ人からの意見
その瞬間、本望ではないことに気づいた
海で死ぬなら、本望だと思っていた。
本気でそう思っていた。
とその人は言った。
ところが、海でサーフィンをしていて、転倒し、サーフボードが自分の顔に向かってきたとき、死にたくないと思った。顔をかばった手が大きく切れて、ずいぶん血が出たが、命に別状はなかった。死ななくてよかったと、心底思った。
あのとき──ボードが自分の顔に向かってきたとき、海で死ぬのは本望ではないと気がついた。
とその人は言った。
サーフィンをするために宮古島に移住までした人だ。
私はこの話を聞いて、とても感動した。
「あいつもきっと本望だよ」
もし、この人がそのときに亡くなっていたら、家族や友人たちは、悲しみながらも、
「海で死ねたんだから、あいつもきっと本望だよ」
「そうだよな、いつもそう言ってたもんな」
などと言い合っていたことだろう。
そんな死に方にあこがれる人もいたかもしれない。
しかし、実際には当人は、死ぬと思った瞬間、ぜんぜん本望じゃないことに気づいたのだ。
これは、たまたま生きていたから、じつはこうだったと聞くことができたわけで、死んでいたら、聞くことができない。
生きている人間だけではバランスが
私たちは、死んだ人たちの思いや意見をまったく聞くことができない。
あたりまえのことだが、いつもこれが気になる。
この世のことが、生きた人間だけの考えで決まっていくなんて、ひどくバランスを欠いた、一方的なことに思えてしまうのだ。
生きている人たちというのは、まだ一度も死んだことがない人たちだ。
つまり、そうとうラッキーな、選び抜かれた人たちだ。
というのも、人間というのは簡単に死ぬからだ。
中学のとき、ひっきりなしに車の通る道を自転車通学をしながら、いま、ちょっと横に倒れただけで、車にひかれて死ぬわけで、それって簡単すぎないかと理不尽な気がした。
とにかく、そんなに死にやすい人間の中で、生きている人というのは、幸運なのだ。
そんな幸運な人たちだけで、物事を決めるなんて、なんとも危なかしい。
宝くじに当たったことのある人たちだけで、マネープランを立てるようなものだ。
ぜひ聞きたいのに
死んだ人の意見がぜひとも聞きたい。死んだ人の意見も取り入れることができたら、きっともっとずっとましな世の中になるだろう。
といっても、聞くことはできない。それどころか、想像することもできない。何事も自分で経験しなければ、本当のところはわからない。勝手に想像すれば、落語の『らくだ』のように、死者を勝手にあやつって踊らせるようなものだ。
じゃあ、死にかけた人たちに話を聞けばいいのか?
残念ながら、それもダメだ。死にかけて死ななかったのと、死んだのとでは、ぜんぜんちがう。
死にかけたのに死ななかった場合、むしろより選ばれた人間という意識を持つことも少なくない。ピンチを切り抜けた人間のほうが、よりピンチをおそれなくなるように。
実際、事故や病気で死にかけた人の中には、
「自分は死を恐れなかった」
「不思議なほど平常心でいられた」
「生きるのも死ぬのも同じだと思った」
などと語る人がけっこう多い。
だがこれは、虫に変身したグレーゴル・ザムザが仕事に行こうとするように、突然の変化にまだ気持ちがついていかなくて、それまでの日常感覚が持続しただけだ。
「海で死ぬのは本望ではないと気がついた」と語った人は、死への覚悟があったからこそ、すぐに気持ちが動いたのだろう。むしろ、珍しい例だ。
こんなことが書けるのは
つまり、本当に死んだ人の意見でないと意味がないということになり、そうすると、それは聞くことができないわけだから、そんなことを言ってみても意味はない。
ここまで読んできたのに、なんの意味もなかったわけだ。でも、そういう無意味なことでも書けるのが、エッセイのよさだと思っている。
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