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このレースが、本当に人生そのものですか?

 新しく始めたエッセイの連載の9回目です。
 毎月、15日と30日の夜に、アップする予定です。
 バックナンバーは、『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 働いて、競争させられて、お金を稼いで、社会の役に立てと言われて……
 そういう生き方しかできないものでしょうか?

〈良い偽善〉と〈良くない偽善〉

 出たばかりの『アウシュヴィッツの小さな厩番』(新潮社)という本を読んでいたら、意外なエピソードが書いてあった。

 ナチスの強制収容所が連合軍によって解放されて、読んでいるこちらも、ほっとしたところだった。
 救い出された少年たちは、とりあえず児童養護施設で保護される。

 わたしはなんと、かつては西洋社会でもっとも裕福な一族とされたこともあるロスチャイルド家の別荘で暮らすことになった。孤児となった少年たちを、ヨーロッパ各地に所有する別荘に滞在させてやろうとロスチャイルド家が申し出てくれたのだ。
 すばらしい、と思ったのはそこに着くまでだった。じつは、ロスチャイルド家の豪邸で暮らすわけではなく、わたしたちが押し込められたのは、敷地の裏手にある家族も客たちも決して近づかない召使い用の宿舎だった。
 召使い用の宿舎はオンボロで不衛生だった─アウシュヴィッツを生き延びた人間がそういうのだから、真実味があるというものだ。わたしは不潔なベッドとシーツ類のおかげで疥癬を患ってしまった。疥癬は皮膚の下に潜り込んで繁殖するダニを原因とし、想像を超えるほどの恐ろしいかゆみを伴う。かなり重症だったため、治療のためにパリの病院に連れていかれるはめになった。

 よく「偽善は良くない」と言うが、〈良い偽善〉〈良くない偽善〉があると思う。
 これはもう〈良くない偽善〉の典型と言えるだろう。
 助けるふりをして、じつは助けていない。
「良くない」と否定されるべきは、こういう偽善だ。

 最近は、味噌もクソもいっしょに、偽善をすべて否定する傾向があるが、とんでもないことだと思う。味噌とクソはぜんぜんちがう。

 本当に相手の助けになっている場合には、それが売名行為のためであろうと、自分が気持ちよくなるためであろうと、上から目線のほどこしであろうと、「偽善さえしない」より、ぜんぜんいい。というか、ものすごくいい。

 喉が渇いて死にそうなとき、「わたしは偽善は嫌だから」と水をくれない人がいたら、呪っても呪いきれないほどだ。一方、「わたしはこの人に水をあげる素敵な人なのよ」と宣伝しながらであろうと、水をくれさえしたら、どれほどありがたいか。

 最悪なのは、「わたしはこの人に水をあげる素敵な人なのよ」と宣伝しながら、実際には水をくれない場合で、「偽善」として非難すべきなのは、この場合のみだ。

搾取しておいて軽蔑する

 それにしても、ロスチャイルド家には驚かされる。
 ナチスの強制収容所でひどい目にあった子どもたちを、さらにひどい目にあわせるというのも、びっくりだが、そもそも召使い用の宿舎がそこまで「オンボロで不衛生」というのは、「西洋社会でもっとも裕福な一族」なのに、あんまりではないだろうか。
 ロスチャイルド家なら、召使い用の宿舎だって、庶民の家よりは豪華かと思った。
 それが、「アウシュヴィッツを生き延びた人間がそういうのだから」というほど、ひどいとは。しかも、アウシュヴィッツを生き延びたほどの免疫力を持つ人間を、病院送りにしてしまうのだ。
 そこまでひどい部屋に召使いたちを住まわせるとは、あんまりではないだろうか。

 思い出したのは、かつては大金持ちのお嬢様だったという高齢の女性から聞いた話だ。落語の『宿屋の富』みたいで、子どもの頃の大金持ちエピソードは、なかなか楽しかったのだが、こんなことを言ったのだ。

 自分のお屋敷の広い敷地の中に、使用人の家もあったのだが、それが小さくて汚くて、使用人の子どもたちは外にあふれて寝ていたりして、汚くて、すごく嫌だったと。

 子どもの頃にそう思っただけでなく、高齢になった今も「ああいう人たちは、ほんと嫌」と言っていた。
 これには唖然としてしまった。

 だって、自分のお屋敷の使用人ということは、その人たちが貧しい暮らしをしているのは、あなたの親が払っていた給料が少なすぎたせいだろう。敷地の中に、ちゃんとした家を建ててやって、充分な給料を払ってあげれば、子どもたちが外で寝て汚れたりはしなかったはずだ。

 それなのに、自分たちで貧しくしておいて、嫌うのだ。
 どういう精神構造なのかと思ってしまうが、まったく無自覚に、なんの罪悪感もなく、軽蔑するのだ。

その競争にそもそも不利な人たちの犠牲の上に

 でも、考えてみると、社会的成功とか、失敗とかも、同じことだ。
 最近、『ホームレスでいること』(いちむちみさこ著 創元社)というすごい本が出た。自分からホームレスになった人が書いている本だ。

 この中で著者がこう書いていた。

(前略)競争をあおられ、より「上」をめざして生きていくこと、成長していくことが価値のあることとされているようだった。性差別の解消や女性の社会進出も、そういった競争社会を勝ち抜いていくということで実現されるものだと語られていた。学校でも職場でもそうだった。「働くことで社会に参加して、貢献するのだ」と言われながら、実際は、他人を食うようなやり方で優劣をつけるシステムに組み込まれていた。

「価値がある」とか「豊か」だとされる物事は、その競争にそもそも不利な人たちの犠牲の上に成り立っていて、「そのような犠牲はしかたがない」と切り捨てるムードが社会に広がっていることが苦しかった。

「その競争にそもそも不利な人たちの犠牲の上に成り立っていて」というのは、本当にそうだ。

 たとえば、サッカーのうまい人でも、バレーボールでは負けてしまうかもしれない。社会的な成功や失敗というのは、しょせん、その程度の差だ。今の社会で大成功している人でも、別の時代や文化なら、大失敗していたかもしれない。

 しかし、それをあたかも、絶対的な人間の価値の差であるかのように思い込むことで、負けた人間から搾取する。搾取することで、さらに追い込み、さらに軽蔑する。

 しかし、たまたま今の社会に向いていないだけの人たちが、そこまで追い込まれて、軽蔑されていいはずはない。
 それをどこかでわかっているからこそ、成功者はより残酷になっていくのだろう。

レースの外で

 私も本当はそんな競争に参加するはずだった。そして、成功したにしても、失敗したにしても、こんなことは考えなかったかもしれない。
 しかし、大学3年生という、社会に出る寸前のところで、難病になった。レースに参加する前に棄権することになったわけだ。
 そして、みんなのレースを見ていた。

 レースには、人の心を燃えさせるものがある。勝利の感動がある、敗北の感動がある。スリルがある、達成感がある。ドラマがある、酔いがある。涙がある、笑いがある。
 見ているだけの人間にも、その興奮はわかる。
 夢中になるのは当然だ。
 このレースが人生のすべてだと思ってしまうのも無理はない。

 でも、それが、ひとつのレースにすぎないということも、忘れてはいけないと思う。



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