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暗い道は暗いまま歩くほうがいい

 エッセイ連載の第20回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 夜道での意外な発見についてです。

まるで間違ったことを言っていた

 以前、私はこんなふうに言ったり書いたりしていた。

「明るい道を歩いているときには、懐中電灯なんて使い道がないし、持たされたら邪魔なだけですが、日が暮れて真っ暗になった道をひとりで歩かなければならないとなったら、懐中電灯がほしくなります。本にもそういうところがあります。人生の道が明るいときは、本なんか読まなくても大丈夫ですが、真っ暗な道をひとりで歩かなければならなくなったときには、本が灯りとなってくれます」

 暗闇を歩くときの懐中電灯に、本をたとえたわけだ。
 しかし、宮古島に移住して、このたとえがまったくの間違いだったことを知った。
 そのことを書いてみたいと思う。

なんか自分の人生みたいでイヤだ

 東京の明るい夜になれていたので、宮古島に住んでみて、夜が暗いというあたりまえのことに、ずいぶん驚かされた。
 街灯のない道もあり、月が雲に隠れていると、自分の足元もよく見えない。
 足元が見えないと、そこに道があるのはわかっていても、足を踏み出すのがこわくなる。
 おそるおそる、ちゃんとそこに道があるのをたしかめながら、ゆっくり歩く。

 なんでもすぐに人生に重ね合わせたりするのは好きではないのだが、真っ暗い道を、すごく不安な気持ちで歩いて、いつ道を踏み外してしまうかわからないというのは、まるで自分の人生のようだと思った。
 というか、自分の人生って、こんななんだなあと、暗い道を歩いてみて、あらためて気づかされた。
 すごくこわくて、とてもいやだった。
 これは耐えられないと思った。すぐにライトを買おうと。

ライトをつけた瞬間、意外なことに!

 で、すぐにライトを買った。
 小さいけれど、かなり明るいという製品で、これなら安心と思った。
 安全に歩けるし、妙な暗い気分にもならずにすむだろう。

 で、真っ暗いところで、ポケットからライトをさっと取り出し、意気揚々とそれをつけた。
 目の前が明るくなった。

 しかし、その瞬間、自分を取り囲んでいる闇が、いっそう濃くなった。
 私は、ぎょっとした。
 恐怖にとらわれた。
 わけがわからなかった。
 周囲の闇が一瞬にして、より黒くなるなんてことがあるのか? どうして? 何事?

光は闇を濃くする

 あわててライトを消すと、周囲の闇はだんだん元の暗さに戻っていった。
 ようするに、目の前を明るくすると、瞳孔が縮んで、そのせいで周囲の闇はより黒く感じられてしまうのだ。
 考えてみれば当然のことだ。
 しかし、実感としては、これはかなりの驚きだった。

 ともかく、ライトをつけると、かえって周囲の闇の怖ろしさが増すので、とてもつけていられない。
 ライトをつけないほうが、ずっとましだということがわかった。

ライトはけっきょく無駄になった

 そうしてあきらめてみると、周囲の闇も、本当に漆黒なわけではない。
 ライトをつけたことで、もっと漆黒な状態を知ったので、それに比べると、耐えやすくなった。
 目がなれてくると、だんだん瞳孔が開いてくるのだろう、少しは周囲の様子がわかるようになる。
 視覚だけでなく、風の動きとか、においとか、いろんな情報で、ここに何か風をふさぐものがあるとか、そこに草がはえているとか、そういうこともわかるようになる。
 わかることが増えてくると、恐怖心も減っていく。
 ついには、暗い道を歩くのも、かなり平気になった。
 ライトはけっきょく、無駄になってしまった。

明かりがないと生きていけないという思い込み

 人生のほうも、暗いままなのは同じでも、そうやっていくらか平気に歩いていけるようになるといいのだが、こちらはなかなかそうもいかない……。
 ただ、明かりがないと生きていけないという思い込みは、少しは減ったかも。

 本のたとえは、懐中電灯と言うのはやめて、今は次のように言っている。

「明るい道を歩いているときには、ひとりでもぜんぜん平気です。でも、日が暮れて真っ暗になった道をひとりで歩かなければならないとなったら、やっぱり心細いですよね。そんなとき、いっしょに歩いてくれる連れがひとりでもいたら、ずいぶんちがいます。そういう人が見つからないときでも、いつもいっしょにいてくれるのが本です」



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頭木弘樹
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