人生のタイムカプセルには、ガラクタが入っていたほうがいい
なぜ入れたのかもわからないもの
たとえば、小学生のときに校庭に埋めたタイムカプセルを大人になってから掘り返したとき、その中に入っているものはガラクタに感じられるかもしれない。
ビー玉とかプラモデルとかはまだしも、布きれとか雑誌のページとか、今となってはなぜそれを入れたのかもわからないものもあるだろう。
かといっても、それらをあっさり捨てられるかと言えば、なんとなく捨てにくいだろう。とりあえず箱に入れて押し入れに入れておくかもしれない。 それは部屋の片づけから言えば、スペースをむだに使っていることになるだろう。
なぜか心の底に残っている記憶
では、心の場合はどうだろうか?
心の中にも、掘り返してみると、「なんでこんなことをいつまでも覚えているんだ?」と首をひねってしまうような、不思議な記憶がないだろうか? 素敵な思い出でもなく、トラウマでもなく、忘れてしまうのが当然の、どうでもいいことなのに、なぜか心の底に残っている記憶……。
私の場合はたとえば、習志野の駅にいた、ごろんのおじさんの記憶だ。
ごろんのおじさん
大学二年生のとき、習志野に友達が住んでいて、そこに泊まり込んで、渋谷の映画祭に毎日通っていたことがあった。
習志野から渋谷では遠いのだが、私が住んでいた筑波からではもっと遠かったし、その友達といっしょに行きたかったからだ。
けっこう朝早くに毎日出かけていたのだが、駅にいつもそのおじさんがいた。
ホームレスなのか、そうでないのか、よくわからない感じだった。
ただ、いつもずっとひざを抱えてしゃがんでいるのだ。
たくさんの人が行き交っているのだが、じっと動かない。
誰もおじさんに声をかけないし、おじさんも誰にも声をかけない。
川の中の棒杭のように、人の流れが自然におじさんを避けていく。
私も同じように、おじさんの横を歩いて通り過ぎるのだが、なぜかそのとき、おじさんがごろんと後ろに転がるのだ。
私のほうを見ていて、そのせいで私が通り過ぎると、後ろに倒れることになるわけだ。
ひざを抱えたままなので、倒れるというよりは、ごろんと転がる感じになる。
なぜ私を見て転がるんだろうと、不思議だったが、最初はたまたまだろうと思った。ときどき、そうして後ろに転がっているんだろうと。今日はたまたま私が目にとまったのだと。
ところが、毎日、私がそばを通り過ぎるときだけ、ごろんと後ろに転がるのだ。
友達が遅れて、駅で少し待っていたことがあるが、その間、おじさんは一度も後ろに転がることはなかった。
しかし、私が横を通り過ぎると、やはりごろんと後ろに転がるのだ。
怖くはなかった。怖い感じのする人ではなかったから。むしろ、だんだん面白くなってきた。おじさんに好感のようなものさえ抱くようになった。
ただ、意味不明なことをしている人から、目をつけられてしまう自分というのは、何かまずいところがあるのではと、それは少し不安になった。
おじさんがある日、ごろんとしてくれなくなったら、さびしいなと、そんなことまで思うようになった。しかし、おじさんはずっと毎日、ごろんとしてくれた。
でも、長かった映画際がついに終わった。大学をずっと休んでいたから(そのせいで後でかなり大変なことになった)、もう筑波に戻らないといけなかった。
急に私が駅に現れなくなるわけで、おじさんはさびしく思うだろうかと、そんなことが気になった。少し申し訳ない気がした。
どうでもいい記憶
──と、これだけのことなのだ。おじさんと口をきいたこともない。どこの誰かもわからない。再会もない。私の人生にまったく何の影響もない。
こんな記憶、すぐに消えて当然ではないだろうか? というか、おぼえているほうが難しそうだ。
ところが、私はいまだに思い出すのだ。
脳のメモリーがこんな記憶で使われているというのは、コスパ的にはマイナスでしかないだろう。しかし、私はこういう、どうでもいい記憶というのは、なにかとても大切なような気がするのだ。
「楽しい記憶」はもちろん多いほうがいい。思い出して気分がよくなるし、今はつらくても昔は楽しいときもあったと自分をなぐさめることができる。
「つらい記憶」はもちろんないほうがいい。でも、これは忘れようにも忘れられないだろう。
どうでもいい記憶は、なぜ心の中に残っているのだろう? その理由は私にはわからないが、こういうムダが、心には必要なような気がする。気がするだけなのだが。
あなたの心の中にもありますか?
いい記憶でもよくない記憶でもない、どうでもいい記憶、あなたの心の中にもありますか?
ガラクタだらけのタイムカプセルのように、心の中のガラクタのような記憶も、やっぱり簡単には捨てないほうがいいし、捨てられないように思うのだ。有用とか不要とか、そういうラベルがつかない、ガラクタならではの魅力、輝き、癒しがあるように、なんとなくだが──なんの論理的根拠もないが──思うのだ。
人生をふりかえってみたとき、「華々しい記憶」とかではなく、「ガラクタのような記憶ばかり」だったとしたら、けっこうショックかもしれない。でも、じつはそれは素敵なことなのではないだろうか?