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「死んだほうがまし」な人生を、どう生きていくか?

 エッセイ連載の第25回目です。
(連載は「何を見ても何かを思い出す」というマガジンにまとめてあります)

 腸閉塞になりかけて、「なんて人生だ…」とあらためて思い、痛さをひきずりながら、一気に書いたものです。

「死んだほうがまし」という素直な感想

「あなたのような人生なら、死んだほうがましだ」ということを、おそらく100回以上は言われてきた。
 これは私に限らず、病気や障害のある人なら、たいてい何度となく言われているだろう。病院の六人部屋でも、またかというほど、よく耳にした。言うぞ言うぞと思っていると、やっぱり言ったりする。

 そんなひどいことを口に出す人はいないでしょう? と思うかもしれない。たしかに、内心で思っても、口に出せることではない。

 しかし、もっと軽い言い方で、つい悪気なく、口にしてしまうのだ。たとえば、私は食べられるものがかなり限られていたので、「好きなものを自由に食べられないなんて、わたしだったら死んでしまう」と何回言われたかしれない。お酒も飲めないので、「お酒が飲めないなんて、オレだったら死んだほうがましだ」と言われ、外出がしづらかったので、「自由に出歩けないなんて、死んだも同然ね」と言われた。

 これらは悪意があって言っているわけではない。傷つけようとしているわけでもない。食事制限の話を聞いたりして、その大変さに驚いて、ついそう言ってしまうのだ。「死んだほうがまし」も、ふだんから「こんな暑い日にビールを飲めないなら死んだほうがまし」とか軽い意味で使っているわけで、本気で死と天秤にかけているわけではない。むしろ、「自分だったら死んだほうがましだと思うことに、あなたは耐えていて、えらい、立派だ」と称賛する意味で言っている人も多い。

 ただ、病人のほうは、今まさに、死なないようにがんばっているところなので、「死んだほうがまし」と言われると、最初はぎょっとしてしまう。

「言葉とがめ」は逆効果

 といっても、「病人や障害者が傷つくので、そういう言い方はやめましょう」ということが言いたいわけではない。
 私はそういう「言葉とがめ」はまったく意味がないし、むしろ逆効果だと思っている。

「こういう言葉は言わないようにしましょう」と言われて、「気をつけなきゃ!」と思うような人は、そもそもひどいことは言っていない。ひどいことを言っている人は、どう注意されようと、それが自分のことだと思わないし、直すことはない。

 だから、せっかくやさしい人たちを、「傷つけるといけないから、話しかけるのは難しい」と萎縮させてしまうだけだ。「きちんと配慮でないかもしれない自分は、病人や障害者に近づかないほうがいいかも」と、そばに寄ってきてくれるやさしい人たちを減らすことにもなりかねない。

 どんなひどい言い方でも、そこに悪意がなければ、問題ないと思う。悪意のあるなしは、言われたほうはわかるものだ。

 実際、私は「死んだほうがまし」と言われて、傷ついたことはない。「よくそんなことを言うなあ」とか、「いやいや、あなたも同じ立場に立ったら、絶対死なないから」とか思ったりはするが、そうやって内心で苦笑いする程度だ。

決定的に人生の喜びが失われているとしたら?

 それより問題は、多くの人が「死んだほうがまし」と感じる人生を、どう生きていくかだ。
 これが難問だ。

 たとえば、「好きなものを自由に食べられないなんて、死んだほうがまし」と人が言うとき、くり返しになるが、本当に「死んだほうがまし」と思っているわけではなく、たんなる慣用的な言い回しにすぎない。しかし〝決定的に人生の喜びが失われている〟と思っているのもたしかだろう。
〝決定的に人生の喜びが失われている〟人生をどう生きるのか?

 食事に関しては、私は13年間、豆腐と半熟卵とササミと裏ごした野菜と、栄養剤で暮らしていたので、食べる喜びがこんなに制限された人生は、みんなが言うように、本当に「死んだほうがまし」なのかもしれないと、かなり気になっていた。私としては、死んだほうがましとは思わないが、それは自己欺瞞なのではないかと。「人生で大切なのはお金ではない」と貧乏な人が言っても説得力を持ちにくいのと同じように、食べられない人間が「食べる喜びがなくても、人生は生きる価値がある」と言っても、はなはだ説得力がなく、自分自身でもその言葉を信じ切れなかったのだ。

 だが幸いなことに、私は手術をして、何でも食べられるようになった。その喜びは大変なものだった。今まで禁じられていたものを、ふんだんにむさぼった。禁じられていた長い期間があっただけに、その食べる喜びは、普通の人たち以上だったと思う。

 しかし、それをぞんぶんに味わった上で、私は「食べる喜びがなくても、人生に生きる価値はある」と感じることができた。これは、とても嬉しかったし、やっぱりそうだったかと、ものすごく安心した。自己欺瞞ではなかった、真実だったと、確信できた。

 今もお酒は飲まないし、外出も控えているが、それでも、そういう楽しみがないから「死んだほうがまし」ということはない、と確信できているので、そのせいで世をはかなむことはない。

「死んだほうがまし」とは思わないが、「なんて人生だ」とは思う

 で、話を終われればいいのだが、そうもいかない。
 昨日、腸閉塞になりかけた。開腹手術をすると、内臓が空気にふれるので、その後、腸閉塞が起きてしまうことがあるのだ。私もまさにそれで、もう何回も腸閉塞で入院した。

 だんだん回避する方法も身につけて、昨日もなんとか回避できた。しかし、とても痛かったし、今もまだ痛い。そして、しばらくはまた食べるものに気をつけないといけない。お粥からスタートだ。

 コロナ以降は、この気持ちをみんなもわかってくれると思うのが、「もう気をつけるのは、うんざり!」なのだ。

 なんでも食べられるように手術したのに、その手術の影響でまた食事制限という、この矛盾というか、堂々巡りというか。

 これを悲観せずにいられるだろうか?

 それでも「死んだほうがまし」とは思わない。しかし、「なんて人生だ」とは思う。
 池にこの人生を落として、女神さまが、「あなたが落としたのは、この健康な人生ですか?」と現れたら、(それを選んではいけない!)と頭ではよくわかっていても、「そうです! その健康な人生です! その人生を私にください!」と叫んで、すがってしまいそうだ。

 というわけで、「病気をしていても、生きる価値はある」と言うと、なんだかすごく前向きな感じがするが、そうではない。
 生きる価値があるというのは、明るく楽しいということではない。大いに嘆くし、大いに泣く。
 おもちゃを買ってもらえない子どものように、床に寝転がって、「ねえ、どうしてこんな人生なの! どうして、もっといい人生じゃないの!」と、さんざんだだをこねたい。
 その姿を見て、「だったら死ねよ」と言う人もいるだろうが、そんなことを言う人より長く生きたい。




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