抜け目なく生きたほうがいいのか?
世の中、甘くないぞ
若いころ、よくこんなことを言われた。
「世の中はそんな甘いものじゃない」
「物事には裏がある」
「抜け目なく立ち回らないと、たちまちやられてしまう」
さまざまな経験を積み重ねてきたような中高年にこういうことを言われると、きっとそうなんだろうなと思ってしまう。
若くったって、抜け目のない人はすでにうまくやっているし、抜けたところの多いこっちは損ばかりしているような気になることもあった。
物事の裏が見抜けなくて、そういうことだったのかとわかってから、自分のお人好しさ加減にあきれることもあった。
この先、ますます「世の中はそんな甘いものじゃない」を思い知らされるんだろうなあと思っていた。
そんな世の中に対応できるのかなあと不安に思いながら、なんとか対応していくしかないとも思っていた。
「世渡りをおぼえる」というやつだ。
現実の厳しさに目覚めた?
就職活動が始まったとき、親や親戚のコネを使うのは卑怯だという空気が最初はあった。「おれはコネなんて使わない」と宣言する者もあり、「あの人、コネを使ったのよ」などと陰口がささやかれたりした。コネではなく実力で勝負する人間が、かっこいいと見なされた。
ところが、しばらくすると、みんな、就職活動のシビアさに驚き、疲れ、たちまち風向きが変わった。
使えるコネを使わないのはバカげているということになった。コネのある人はうらやましがられた。コネのない人間は一段低いように見られた。「オレのことも頼む」と、コネのある人間にすがる者も多く、コネのある友人を持たない者は、大学時代の人脈づくりに失敗したかのように見なされた。実力で内定を得た人に対しては、「どうせ会社に入ってから出世できない」などと、これみよがしに陰口がささやかれるようになった。
みんな、いわば「現実の厳しさに目覚めた」わけである。
ある物語から別の物語に引っ越し
しかし、これは本当に目覚めたのだろうか?
それは本当に現実なのだろうか?
私は就職活動の時期が始まる前に、難病になって入院していた。だから、就職活動をしたことがない。それなのに、不思議なことだが、多くの人が私のところに就職活動の相談をしにきた。だから、上記のようなことを知っているのだ。
就職活動をしたこともない人間のところに、なぜ就職活動の相談にくるかというと、他の友達はその期間はみな競争相手だからだ。レースで競っている相手に相談はでできない。でも、苦しいから誰かに相談したい。
そんなとき、レースに参加していない、変なアドバイスもしてこない(なにしろ就職活動について何も知らないのだから)、そしていつも必ずベッドにいる、道端のお地蔵様のような男がいたのだ。
というわけで、私はもうレースを棄権してしまった者として、かなり客観的に冷静にみんなのことを見ていたのだが、「現実に目覚めた」というよりは、ある物語から別の物語に引っ越しただけに見えた。
抜け目のない人のほうがうまくいくのか?
甘くなくて、抜け目がなくて、汚い手もうまく使うほうが、現実的な感じがする。たしかに、理想的ではないだろう。
でも、本当に現実かというと、そうでもない。
実際、その後の彼らの人生は、コネで入社してうまくいった人もいれば、うまくいかなかった人もいる。実力で勝負してうまくいかなかった人もいれば、うまくいった人もいる。
抜け目のない人のほうがうまくいく確率が高そうだが(私もてっきりそうだと思っていたのだが)、意外にもそうでもなかった。そういう人の周囲には、同じように抜け目のない人やおこぼれにあずかろうとする人がたくさんいて、足をすくわれたり、足を引っぱられたりする。そして、そうなったとき、助けようとしてくれる人がいない。
一方、人を出し抜こうとしない人のそばには、その人を助けようとする人が自然と集まってくる。なので、何か起きたときにも、周囲の助けで切り抜けられることが多い。
見ていて、なるほどなあ、そうなのかあと思った。
じゃあ、好きなほうを選べばいいんじゃないか
つまり、どっちの道もうまくいくかどうかはわからないし、うまくいく確率は意外と同じくらいなのだ。
じゃあ、好きなほうを選べばいいんじゃないかと思う。
「世の中はそんな甘いものじゃない」
「物事には裏がある」
「抜け目なく立ち回らないと、たちまちやられてしまう」
などと脅かしてもいいが、
「甘くてもいいじゃない」
「綺麗事も世の中にはある」
「いつも抜け目なく生きようとするなんて、つまらないじゃないか」
とそそのかしてもいいわけである。
どちらのほうがより現実的とも言えないのだ。
甘い綺麗事でも一生をかけて、押し通せば、甘くなくなるんだ
私は山田太一ドラマが好きだが、山田太一ドラマの特徴のひとつとして、後者のほうをそそのかしてくる。
そのことに最初はびっくりしたし、今ではそれがなんだかとても気持ちがいい。
たとえば、『男たちの旅路』だ。
こういうやりとりがある。
これを最初に見たとき、私は衝撃を受けた。綺麗事はよくないと思っていた。裏に何があるのかまでつきとめて、はじめて物事は納得できると思っていた。
でも、たしかに、そうではないことだってあるはずだ。
ドラマの中の若者もあとで仲間にこう言う。
綺麗事で、どこまで行けるか、頑張ってみようと思ってるの
『緑の夢を見ませんか?』というドラマでは、会社の2代目が、いろんな事業にさんざん手を出しては失敗し、浮気もさんざんして、そのあげく、一軒のペンションだけを残して、首つり自殺してしまう。
残されたのは、その男の母親と妻のふたりだけ。母親は高齢で車椅子を使っている。妻はまだ30代くらいの若さ。
財産はもう他にはない。そのペンションもじつは男が愛人といっしょにやるつもりだったのだ。その愛人に逃げられたのだ。
しかも、男は死ぬ前に、土地の名義は妻にしているが、その上に建っている家は母親の名義にしている。妻が勝手に土地を売れないようにしているわけだ。ひどいやり口である。
知人がこんなふうに勧める。
それに対して、妻の弘子はこう言う。
「非現実的」「甘い」「青くさい」「綺麗事」「そんなもんじゃない」と言う人はいくらもいるだろう。
たしかに、その通りだ。
でも、感動する人もいるだろう。
人間の中には、抜け目なくうまく生きたいという気持ちもあれば、一方で、甘く、青くさく、綺麗事で生きたいという気持ちもある。
後者を抑えて、前者を優先すれば、それで現実的な人間だろうか?
ここへ来た自分を、見直してるの
『午後の旅立ち』というドラマに、こんなセリフがある。
損な選択をしたのだ。「きっと、これから何度も後悔するだろうけど」とも思っている。でも、「ここへ来た自分を、見直してる」のだ。
「所詮世の中は色と慾」と言ってしまえば、世の中はそう見えてくるし、そうではないと言ってしまえば、また別の顔も見えてくる。
味気なく醜いものだけが現実なのか?
山田太一はエッセイで書いている。
あなたなら、この問いにどう答えるだろうか?