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ユーモア、やめませんか?

 新しく始めたエッセイの連載の4回目です。
 毎月、15日と30日の夜に、アップする予定です。
 バックナンバーは、『人生は「何をしなかったか」が大切』というマガジンに入れていきます。

 今回は、引き続き、「後悔」について書く予定でしたが、
 ちょっとあいだに、別のをひとつ、はさみます。

 怒る人もいそうな内容なのですが……

「ユーモア」で検索してみると

 試しに、「ユーモア」でネット検索してみると、〝ユーモアは大切〟という話ばかりが山ほど出てくる。

 ユーモアは最強の武器である
 ユーモアのある人は知的に見え好感を持たれる
 ユーモアは職場の潤滑油
 ユーモアを大切にしている職場は生産性が高い
 ユーモアは最上のコミュニケーションスキル
 ユーモアのある家庭は夫婦関係も親子関係も親密に
 ユーモアがあればモテる
 ユーモア体質になれば、人生は変わる!
 すべては「ユーモア」が解決する!
        ︙

 並べるときりがない。とにかくユーモアは絶賛されていて、その効能はあらゆる分野に及ぶ。職場でも、家庭でも、友人関係でも、恋愛関係でも、ユーモアがあればうまくいき、生産性は上がるし、親密度は上がるし、気分も上がる。

 うまくこげなくなっていた自転車のチェーンに油をさしてやれば、びっくりするほどすいすいこげるようになる。ギスギスしやすい人間関係において、ユーモアはそういう潤滑油になるというわけだ。

 しかも、ユーモアのある人は、好かれる。頭もいいと思われる。人柄もいいいと思われる。気がきいていると思われる。
 いいことづくめだ。

ユーモアには塩のようなところがないか?

 たしかに、ユーモアは大切だと思う。
 笑いは人の気分を明るくするし、人と人の距離を縮める。

 しかし、こうも手放しにほめて、手放しに勧めて、いいものだろうか?
「ユーモアがたしかに大切なものなら、どんどんほめて、勧めて、いいんじゃないの?」と思うかもしれない。

 しかし、たとえば塩は大切なものだ。それは間違いない。塩分をとらないと人間は死んでしまう。生きるうえで欠かせない。
 しかし、だからといって、どんどん塩分をとっていると、今度はとり過ぎになって、それはそれで命にかかわる。
 ほどが大切なわけだ。日常ではむしろ、塩分をとり過ぎないように心がけるくらいのほうがちょうどいい。

 ユーモアにも、そういうところがないだろうか?

ユーモアに疲れて、うんざりしていませんか?

 たとえば、職場。
 上司は部下に好かれたい。成績も上げたい。そこでがんばってユーモアを発揮してみる。
 部下たちが笑ってくれる。いい雰囲気だ。「うちの上司は面白い」などという評判も耳に入ってくる。『ユーモアのセンスの磨き方』というような本を買って、さらに腕を磨く。
 一見、好循環のようだ。

 しかし、本当にそうだろうか?
 部下は上司のユーモアだから、笑うしかなくて、無理してがんばって笑ってあげていないだろうか? 面白いと言ってあげれば喜ぶだろうから、そう言ってあげているだけではないだろうか?
 そして、いちいちユーモアを発揮されて、それにいちいち笑って反応してあげることに、だんだん疲れて、ほとほとうんざりしている、ということはないだろうか?

笑いのサインと迎合

 私自身の経験で言うと、高校生くらいまでは、面白い話をする友達の話は本当に面白く、心から笑っていたし、面白くない話をした場合には、「それは面白くない」と誰もが正直に言っていた。

 しかし、大学に入ると、ガラッと様子が変わった。
 誰かがまったく面白くない冗談を言っても、みんながいっせいに笑う。
 最初はすごくびっくりした。
 なぜみんな、こんなことで笑うのかと。

 だんだん、それがひとつの約束事なのだと気づいた。
「今、オレは面白いことを言ったぞ」というサインが発信されたら、それに反応して、笑うのだ。たとえ面白くなくても。
 そこで重要なのは、面白さのレベルではなく、そのサインを的確に読み取って、的確に反応できるという能力のほうなのだ。それが「笑いがわかる」という言葉によって表される。

 排除されるのは、面白くない人ではなく、その約束事にのれない「笑いがわからない人たち」だ。
 排除されたくないから、しかたなく、迎合して笑う。じつに苦しくて、つまらない。

 大人になるとは、こんなに話がつまらなくなることなのかと、すごくがっかりした。

 グループ内で権力のある者は、どんなつまらないことを言っても笑ってもらえ、そのせいでますますつまらなくなっていく。笑いはグループ内での地位を表すだけで、まったく笑えない。

「親父ギャグ」と殺意

「親父ギャグ」という言葉がある。調べると、「中高年男性が好んで言いそうな、面白くないギャグのこと」という説明が出てくる。
 しかし、「オレの『親父ギャグ』は潤滑剤になっている」と思っている人は少なくない。つまらないギャグを言うこと自体に面白さがあるし、ギャグをまったく言わない人によりは、回りを明るくしているし、「つまらない」と言われながらも、じつは好かれている。
 そういうふうに思っている人が多い。でなければ、「親父ギャグ」を言い続ける人がこんなに多いわけがない。
 若い女性が「親父ギャグ」を言ったりすると、それがまた称賛される。

 面白いギャグを言おうなんてことなると、それはかなりハイレベルなわけで、そうそう続けられない。しかし、「親父ギャグ」なら、日々いくらでも連発できる。
 ぜんぜんユーモアのない人より、たとえ「親父ギャグ」でも、ユーモアのある人のほうが、場をなごませているはずだ。だから、みんなで言おう。「親父ギャグ」でいいじゃないか。ユーモアに満ちた、なごやかな世界を!

 その心根はたしかに素敵かもしれない。
 しかし、その「親父ギャグ」で苦しんでいる人たちがいることを忘れてはいけない。
「この焼き肉は 焼きにくい」とか言って、こっちの顔を見たりされると、「くだらない」と笑ってあげなければと思いながらも、瞬間、殺意がわいてしまう人さえいるのだ。
 あなたも、相手が笑わせようとしてくることに、ほとほと疲れることはありませんか?

「息苦しい、何も言えなくなる」と嘆くのはなぜか?

 まして、そのユーモアが、差別的だったり、セクハラだったり、パワハラだったりすれば、なおさらだ。

 コンプライアンスに厳しい世の中になってきて、「息苦しい、何も言えなくなる」と嘆く人が少なくない。「何を言っても、セクハラだパワハラだと非難されてしまう」という人さえいる。

 そういう発言を聞いて、不思議に感じる人もいるだろう。どうして、何を言っても、セクハラやパワハラになるのか? そんなに日頃からセクハラやパワハラをしていたのか? それはしてはいけないことなのだから、息苦しいとか言ってないで、やめればいいんじゃないのか?

 これは私は、ユーモアの問題ではないかと思っている。
 苦しんでいる人たちは、セクハラやパワハラをしたいわけではないのだ(したい人たちも何割かはいるかもしれないが)、そうではなくて、単純に、ユーモアのある会話をしたいのだと思う。
 しかし、その人たちのユーモアの多くは、差別的であり、セクハラ的であり、パワハラ的なのだ。

 そういう笑いがずいぶん長い間、主流だったからしょうがない。プロのお笑い芸人でさえ、素人いじりをしていた。素人がそのマネをしたら、どうしても相手を不快にさせたり、下ネタになったり、攻撃的になったりしてしまいやすい。

 テレビドラマ「不適切にもほどがある」で、昭和からやってきた男は「チョメチョメ」という言葉をくり返し口にする。それはセクハラしたいというよりは、昭和の流行り言葉をユーモアとして使っているだけだろう。

『うたわない女はいない』(働く三十六歌仙 中央公論新社)という本に、浅田瑠依のこんな短歌が載っている。

「主婦合格!」と言われてからは丁寧に盛れなくなった ごめんなレタス

 この「主婦合格!」と言っている人も、おそらくこれはユーモアのつもりなのだ。だから、なかなか変えられない。ひとつのユーモアの型を身につけてしまっているから。

「おじさん構文」にしても、あれはユーモアを盛り込もうとするから起こってしまうことだろう。ユーモアがないよりはあるほうがいいと思っているから、なかなかやめられない。代わりのユーモアを見つけられないからだ。そもそもユーモアをやめればいいという発想にはなかなかいきつかない。だって、「ユーモアはいいもの」だから。

ユーモアからの解放

 ユーモアのない人は、本当につまらないだろうか? 好かれないだろうか?
 くだらない冗談を連発して、いちいち笑ってあげなければならない人に比べて、そういうことをいっさい言わず、ただ普通にしゃべる人は、すごく爽やかに感じられる、ということも充分にありうる。
 疲れないし、腹も立たないし、とても好感が持てる。

 私たちはもうずいぶん、ユーモアに苦しめられてきた。
 ユーモアを持とうとがんばってきた人たちも大変だったし、その成果を発揮されて、対応しなければならならなかった人たちも大変だった。
 そろそろユーモアから解放されてもいいのではないだろうか?

 ユーモアをやめれば、それだけで自然と、差別発言もセクハラ発言もパワハラ発言も、ぐーんと減るはずだ。差別発言やセクハラ発言やパワハラ発言をしたかったわけではなく、面白いことが言いたかっただけなのだ。

「ユーモアはいいものだ」という、誰もが疑っていない前提を、少しだけ疑ってみてもいいのではないだろうか?

 塩加減に気をつけるように、ユーモア加減にも気をつけてみてはどうだろうか。最初は味気なく感じるかもしれないが、だんだんかえって調子がよくなっていくことを感じるのではないだろうか。

反省しそうになった人はもともと大丈夫

 という、ささやかな提案なのだが、反対意見の人も多いだろう。それも、もっともだと思う。

 ただ、くり返しになるが、「ユーモアはいいものだ」ということを、あまりにも誰も疑っていないように思う。実際に苦しんでいる人が多いにもかかわらず、みんなが我慢している。
 だから、ちょっと書いてみた。少しは疑ってみてもいいのではないかと。

 なぜユーモアをそんなに気にするかというと、病気や障害のある人は、健常者以上に、ユーモアを求められるからだ。それはおかしいのではないかと思っている。そのことについては、またいつか機会があったら、あらためて書いてみたい。

 なお、「自分はくだらないユーモアを使いすぎだったかも」と反省した人は、たぶん、反省する必要はない。そういう人は、もともと使いすぎていない。
「オレのユーモアはウケているから」と思っている人は、本当にそうかもしれないし、じつは気をつけたほうがいい人かもしれない。



お知らせ

明日、夏葉社の島田潤一郎 さんとのトークイベントをします。
島田さんとのトークイベントは、初めてです!とっても楽しみにしています✨
オンラインもありますし、
アーカイブもありまのすので、当日、ご都合の合わない人もぜひどうぞ😊


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頭木弘樹
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