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亀の歩み稽古日記 「踊れないとは」


「踊れないとは」

…自分でも驚くほど、何度も何度も踊れない境地に陥り、踊ることを見失って茫然と立ちつくす。泣きたくなるけど、泣いている場合ではない。
いったい何が起こっているのか、見てみなきゃいけない。

なぜ動きが鉛のように固くなる?
つまりなぜ踊れなくなるのだ?その時カラダはどういう状態になっている?

大事なことは何だ。よくよく噛みしめよ。

◆「抜けた状態」であること
最初の一歩からそうであり
おわりまでそうであること

では抜けているとはどういう状態か。腑抜けになっているのとは勿論違う。動きを、運動を超えたところを感じていること。動きが抜けるとは、消えて無くなることではなく、動きが本当に微細になった時に、その動きの背景が現れるというか。川の水の流れが静かになると、その川底が見えるような。動きを超えたところとは、動きそのものを生み出しているところ。その世界がいつもあることに気づいていること。

そもそも私達が動きを感じるのは、動きを超えたところにいるからなのだ。その事に気づくこと、見ること。そうすると、カラダはとてつもなく広がっていく。
その「運動を超えた」ところは、「間」や「創造性」が生まれるところでもある。

◆「見ることが踊る」

頭の思考などひとつの事に捕らわれていると、そこはとても狭いので、全てに広がることができない。動きと共になれない。踊れなくなる。狭くて捕らわれた視点というのは、分離している。狭い視点から見る景色は、踊りださない。監視しだす。

見ることが踊りだすことは、どういうことか。実際見ることが固定されていると、とても窮屈さを感じる。先程の狭い視点。自らを監視しだす。ひとつの限られた視点に閉じ込められる。例えば「感じなきゃ」と自分に命令しだす。命令する私と、命令されるカラダとに分離する。そうするとほんとに固くなる。それがそのまま踊りに現れるのだ。それに気づくこと。本当に気づいたら、もう乗り越えている。ということは、まだ本当には気づいていないということだ。。見ることが踊る、まだまだ対話が必要だ。

◆中心を通ること。

大地、重さに抜けるのも、天、軽さに抜けるのも、中心を通っていること。早くてもゆったりしても変わらない。それが手にも足にも伝わっていく。手や足が先じゃない。いつも、胴体をすっ飛ばしてしまう。それは中心を通ってないから。つまりカラダを通ってない。そうすると、思いだけというか、やったつもりというか、動きと共になくてばらばらになる。そうすると微細さや、広がり、創造性が動きださない。エネルギーがいきいきと動きださない。何回も無意識にやってしまうのは、例えば上にいく時、意識、思いだけが先にいってしまい、手や足は置いてけぼりになり、動きがずれる。思いは思い、動きは動き、となってしまう。そうすると、やはり広がりや微細さは生まれない。中心を通ってないとバランスも崩れてしまう。

しかし改めて、何がカラダを通るのか? …「意識」としか思えない。「意識の芸術」という言葉を思い出す。

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