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亀の歩み稽古日記~真剣な遊び~
「間(ま)を感じる、間に入る、間とともに、色んな流れを感じる、対話する」これらのことが大事なのはわかったのだが、なかなか上手くいかない日々。
水の激しい動きの時は、特に頭が誤解しやすい。激しく、となると強さと単純に思い込んでしまい、力んで硬くなっていた。前にも同じような悩みを書いていたように思うが、繰り返すのだ。(螺旋状にね!)
「柔らかく放って!!硬くならずに。流れに責任とらなくて良いから。思いきって大空に放つような感じで。大空は受け止めてくれる。」
そうか、と思った。力を抜いて柔らかくいないと、放てないのだ。
でも放ったあと、どうして良いかわからない、と言うと、
「それは放ててないからだね。だから次の動きが生まれない。追っていては放てないし、放つことで間ができ、新たな流れが生まれる。」
確かに。激しくても激しくなくても、“間”の大切さは同じということだ…。
踊っていて、何をやっているのかわからなくなる時がある。それは、“間”とともにない時なんだな、と思った。
その感触は、自分で見つけていくしかない。
間を感じるには。間に入るには。色んな流れを感じるには。
間、には全てが含まれているから、様々なものと出会う。出会いがあるから対話が生まれる。新たな出会いと対話、これがいつも新鮮に感じることそのものであり、踊りそのもの。
間、には全てが含まれるとはどういう事かというと、、間とは、例えば動きの向こうというか、動きが生まれるところと捉えている。動き以前でありその源。動きだけじゃなく、情動やイマジネーションや、、思考なども?… よくわからないけど、この世に現れているもの全ての源という感じだ。
踊りのかなで様々な流れと出会いたい。
でも例えば、様々な流れを感じよう感じよう、、と思いながら踊ってもなかなか出会えなかった。
様々な流れとの出会いを果たすには、ひとつの流れに深く入っていくことだと、カラダで気付いた。これが由良部さんのいうところの微細さなんだと思う。深く入るというのは、間の感覚と似ている。。広がる感覚。様々な流れが生まれるところ。微細に深く入るということは、きっと間に入っていくことなんだろうな、と思った。流れの向こう、動きの向こう、生まれるところ、発生と消滅の泉、創造の源へ。
微細に深く入っていくと、おのずと柔らかくなる。そこには情動が瑞々しく流れているから。情動とともにあるということは、間がとても近しくなる。透明度が増すからかも知れない。(情動は常に流れているから透明度が高い) 透明度が増すから、間が見えやすいんだろうな。間とは色んなものとの出会いの場。情動、動き、色んなものが出会い対話し、空間に現れる。それが踊りなんだろうな。間、動き、情動、時間、空間…etc, 更にそれらを超えたもの。それらががひとつとなって繰り広げられる場。カラダ。
ずっとずっと硬くいた気がする。「遊び心がないと 」という言葉が今心に響いている。舞台においても。もしかすると人生においても。
… “ 真剣な遊び ” かぁ…。
写真は稽古場。スペースALS-D。