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亀の歩み稽古日記~無中心の踊り~
“ 無中心の踊り ”
Yurabe : 「…そうか、私がやっている踊りには中心がないのか…」
稽古の中での対話によって、明らかにされる認識や言葉があるようだ。
無中心。カラダに中心を持たない踊り。。とは?
ちょっとわかりにくいが、、一般的に、、例えばクラシックバレエでは、カラダの中心を胸のあたりまでグッと引き上げ、そこから手足が伸びていく、、というイメージが思い浮かぶ。反対にお能や日本舞踊では、重心をぐっと丹田まで下げることを基本としているイメージだ。。
( 私にはぼんやりしかわからないけど、わかる人にはもっとわかるのだろう。)
確かに、中心を決めて動くことはしない。
「カラダに中心を持つのではなく、中心にはエネルギーを通していく。そして中心から全体へ。中心、カラダの使い方は、踊るエネルギーによって変容する。」
踊るエネルギー。それは、水であったり、空気であったり植物であったり。重力や、触覚なども。
そしてそこには、常に眼差しが動いている。
◆ 眼差し
エネルギーは等身大のカラダを通り、又超えて抜けていく。
何が通り、何が抜けていくのか。
エネルギーとも意識とも言えるのかも知れないが、最近では 「眼差し」と言っている。
視覚ではなくて、眼差しでカラダの内側や、等身大のカラダを超えたものを見ていく。視覚では見えないが、眼差しでは見えるから。
眼差しが、内臓や無限を見るのだ。
遍在している眼差しで。
「見ることが踊りだす」
この言葉の意味が、少しずつ少しずつ、明らかになってきている。
舞踏とは、踊りとはなんだろう。大事なことは。その核心は。
「人生をかけて、いや人生を超えて」
師のこの言葉は、私を無限へと誘う。