「黄泉の花」「舞踏館」への思い。続々・由良部正美さんへのインタビュー
京都舞踏館にてロングラン公演されていた
「黄泉の花」への思いについて語られています。舞踏館という空間についても。(本当に貴重な場所でした…)
・「黄泉の花」は、どのような思いで創ったの ですか?
ーーー 花、というのがひとつあるよね。花の存在。花は植物の生命のひとつ。根っこができ、茎がのび、蕾ができ、花が咲き、種ができる。花というのは、植物の過程の中では一瞬というか、短い生命のひとつでしかないかも知れないけど、成長の時間の過程の中で、そこに開いていくというのは、何か時間を超えた世界の中に開いていくような、全く違うものの開花がある。
人間も成長し、少年少女になり老いて死んでいくという時間の中で生きている訳だけど、でもその中に、そういう時間を超えた存在として、たぶん深い深いカラダの中にある願い事のようなものがあるんじゃないかな。
花の中には、逆にいうと様々な時間が含まれている。全ての時間の運動も含み、又時間を超えたものとして、「花」があるんじゃないかな。それを舞台空間の中で表現するという事。
時間を超えたものとして、ひとつ、ずっと座っている「脇」の存在がある。常に眼差しを向けているものがいて、初めてそこに花が生まれる。
全編の私の全ての色んな時間の中で、あるいは時間の中での感情や色んなものがあるけど、それを貫いて、眼差しをずっと向けている。まさにそれが、花の意識とも言える。
遍在している眼差しであり、慈愛かな。
・舞踏館という、あれだけ狭い空間の中でのお客様との関係性を、どう感じていますか?
ーーー 蔵というのはね。色んな…暗いのクラとかね、胎内のクラとかね、つまり閉じられた狭い空間。だけどそこには宇宙がある。
そこでは、いわゆる観客と演者という分かれたものではなくて、蔵自体の中に、見ている者と見られている者、両者が包まれている。又包まれて開かれているような。見るということと見られているということが、包まれながら開かれている。そういうある種の宇宙。
小さい空間であるからこそ、広大な広がりがある。この世のものではない広がり。つまり
延長された空間ではなく、無限の小ささにもなるし、無限の大きさにもなる、そういう広大さ。そういうものが、蔵空間のなかで現れる。
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