亀の歩み稽古日記 ~前置き③~
踊りはまさに、その今、にあるという。「今ここ」にあるのが踊りだと。時間の中の今じゃない。時間を超えた今。私達の本質は、時間を超えている。 今という、とてつもない広がりを持つ次元、それを時空という次元の中に現すことができるのが、命なんじゃないかな。そして踊りは、感情、情動、動き、イメージ、空間…全てがひとつとなって展開される。私達の本質的な次元の豊潤さを、表現してしまうのだ。
「次元の開示」
今、に身を置けば、おのずと創造の泉に触れることになる。そこは無尽蔵な泉。恐ろしいくらいに豊かなところ。私達は時空を超えた存在で、無尽蔵な創造の泉と共にあることが本質、だなんて、こんな魅惑的なことがあるだろうか!!
私達はこの広い宇宙の、小さくてちっぽけな存在で、時間の流れの中で生きている…確かにその側面もあるけど、それだけじゃ不十分。時空を超えた私達が、時空の中に現れているのだ。
踊りと日々の生活は別個ではない。
ただ踊りは縮図であると感じるから、日々の生活では気づきにくいことに気づきやすい所がある。踊りから離れても、時空を超えた存在あり、時空の中で私達の本質を表現できる存在であることに変わりはない。ということは、本当はいつでも踊りのゾーンはあるのだな。
様々な私達の悩みや苦しみの解決方は、対処療法的な何らかの方法ではもはや間に合わない、と言ったけど、もしこの様々な根本的な誤解が溶けたら、誤解に気づけたなら、今までの色んなあらゆる方法は、この時が来たとばかりに本当の力を発揮するのではないかと思う。
自分の問題、他者の問題、この世の問題。自分の中にある問題は、戦争やあらゆる犯罪に結びついているというのは、決して大袈裟ではない。全部繋がっている。恐怖。手がつけられないくらいだ。もう限界じゃないかしら。
とは言っても私はそんなに不幸ではない。むしろ恵まれていると言える。だけど飼い慣らされてもいるのだ…飼い慣らされたままでも、それなりに生きていける。でも、そんな穏やかな日常の中に、やるせない、どうしようもない正体不明の虚しさをずっと感じてきた。何かがおかしい、何かが足りない。窮屈。知りたい知りたい…本当のこと。
知りたいと願う迸るような情熱もまた、抱えてきたのだ。その情熱を、踊りの稽古にぶつけられることが嬉しい。学べることが嬉しい。
全ての問いをぶつけられる、そういう懐の深い探求の踊りなのだと思う。由良部さんの舞踏は。
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