旅の話。94年当時のアメリカLA周辺の印象。

みなさん、こんにちは。
いつもお読み頂き、ありがとうございます。
今回は、94年1月のサンディエゴでのホームステイを終えて、LAの知人宅に立ち寄った時のことを書きたいと思います。


年明けからの一か月のホームステイを終えて、海側にあったホストマザーのお宅から、サンディエゴの空港に送ってもらい、飛行機でLAに向かったのですが、地上の先に停まっていた初めて見るかなり小型の飛行機に目が点になり、逃げ出したい気持ちになりました。
一呼吸して気持ちを立て直し、機体後方に横付けされている会談を上がり、小さな機内に入ると、前方にパイロットが二人、通路左に2席右に1席が5列程あり、私は左の窓際後方の席に座り、離陸から着陸まで上がり下がりする窓からの風景を、恐怖と祈りの気持ちで眺め、50分程度の長いジェットコースターフライトが終わった時は、心から安堵しました。

空港からバスでLA市内のビル街に近付くと、天気は良いのに、上空に雲のようなスモッグがかかっており、そこはサンディエゴの澄んだ青空とは違うなと感じました。

LA在住のノブは、日本の友人の紹介で初対面で会ったのですが、同年代で話やアスク、車で観光地をドライブしてくれ、自宅まで案内してくれました。

住宅は日本の新興住宅地とそれほど変わらず、窓に防犯のために、頑丈な黒い鉄枠がはめられていたのが、印象的でした。
ノブから、安全な日本とはまるで違う話を2つ聞いて背筋が凍るような感覚を受けました。

1つの話は、夜にでもライブハウスに連れて行ってくれないか?とお願いすると、「とんでもない!車がボコボコにされるくらい、危険すぎるよ」。と

即答されたこと。

もう1つは、ノブの友人が夜にスーパーの駐車場に車を止めて降りたところで、「金を出せ!」と銃を向けられたので、ポケットの財布を取ろうと手を後ろに回したところ、3発発砲されたそうです。
このような場合は、手を上に挙げて、後ろポケットの財布を取らせるのが正解のようですが、幸い友人は急所を外れて、命は助かったようです。

「あー、なんて危険な国なのだろう!」と、一か月もアメリカにいて、今更ながら実感しました(苦笑)。

翌日はノブのいとこの高校生の女の子が、仮免許中で、ノブが助手席で、私が後部座席に乗って、海の方までドライブしました。
途中にホームセンターに立ち寄って、何か目当てのものを探している時に、いかつい黒人の警備員と目が合ったようで、進行方向を歩く際に近づいて、「何か言いたいことがあるの?」と聞いたら、
「NO」。と答えていました。
日本のカラオケボックスがKARAOKEとして定着していたり、
沖縄の船大工だったノブの祖父が移住した話を聞いたり、
なかなか興味深い体験になりました。



帰国して成田空港から、京成スカイライナーで、都内のひしめき合う夜の住宅街の灯りを窓から見た時、急に夢が覚めて現実を見せつけられたようで、
戻れない過去が愛おしく、強烈にアメリカ西海岸に帰りたい気持ちになりました。
いろいろあったけれど、貴重な体験の連続で、楽しい旅だったんだなと、自分でも驚くほどの愛しい日々になりました。
一緒に学校に通ったブラジルからの男子高校生、アルゼンチンからの女子高校生2人、フランス、イタリア、ドイツ、韓国からの若者たち・・・。
いろいろな人たちの笑顔が、今も目に浮かびます。


また、先日の山火事の被害を受けた方々へのお見舞いと、復興を心よりお祈りして、この文章を終わりたいと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
























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