手の届くところからいままでにないものを作り出す〜和牛改良とも通じる地方創生の要諦
地域を変えるのは、他所者(よそもの)、若者(わかもの)、馬鹿者(ばかもの)とは昔からよく言われています。私はきょう(8日)、広島県神石高原町に来て講演し、この町で大正から昭和の時代に獣医師として働き、県種畜場長や県議も務めて「牛の神様」とも呼ばれた丹下乾三(たんげけんぞう、1888-1952、写真)さんのことを3つすべてに当てはまる偉人として称えました。(写真は1973年刊行の伝記「神石牛と丹下乾三」より)
和牛の世界では「中国6県」と言われ、兵庫県も中国地方の仲間になりますが、中国山地では農耕用にも運搬用にも和牛が大活躍していました。大正期、広島県は兵庫県と並ぶ和牛の大産地でした。
彼は神石(じんせき)郡の和牛を改良するため、草鞋三足を腰に巻きつけ、岡山県新見を経由して訪れた鳥取県日野で素晴らしい牝牛を見つけ、その牛を70円で買い付けました。大正3年(1914)のことです。
当時の給与所得者の平均年収は300円余りということですから、いまの値段に換算すれば130-150万円くらいでしょうか。埃まみれになってその牛を連れて神石に戻ったところ、郡長から大幅な予算超過を咎められました。丹下さんはそのまま牛を自宅に連れ帰り、自分で買い取って飼育しました。
役所組織の中で冷遇されることもあったようですが、大正11年(1922)平和記念東京博覧会で神石牛「豊神号」が名誉賞を受賞し、神石牛黄金時代が始まります。この牛も丹下さんが郡内で見つけ自分で飼った牛でした。使役牛なので今と違って肉質より性質や体格に美しさが評価された時代です。
使役牛から肉用牛へと評価の基準が変わっても、神石牛をはじめとする広島県産の和牛は全国和牛能力共進会で名誉賞を受賞するなど昭和の終わり頃まで高い評価を受け続けました。
神石高原町は高齢化が進んで、若者は少なくなっているのですが、他所者は少しですがやってきているようです。若者が減っている分、年齢に関わらず難しい課題に挑む馬鹿者がもっといて欲しいところですが、今回、私を講演に招いてくれた会社経営者で前町議の横尾正文さんはその一人に違いありません。
役場の人も町議会の人も内心困ったものだと思っているNPO法人ピースウィンズ・ジャパン(PWJ、神石高原町、大西健丞代表理事)の保護犬事業について、もっと情報開示を求め、事業を検証しようとおっしゃるのですから。PWJとの包括連携を推進してきた現職町長の入江嘉則さんには大きな脅威です。
横尾さんは22日に行われる町長選に立候補する意思を表明済みで、この町では16年ぶりに町長が選挙で選ばれることになりました。現職に公開討論を2度申し込んだようですが、2度とも断られたようです。
町職員出身の現職と、企業経営、町議経験者の挑戦者が討論すれば、政策やキャラクターの違いが鮮明になって、投票率も高くなるはずです。無風のところにあえて風を起こして、停滞や均衡を破ろうとするひとこそ、地方の活性化には必要です。
横尾さんも和牛改良に取り組んでいた一家のご出身とか。それぞれの個体が受け継ぐ資質を見極め、より効果が大きくなる交配、かけ合わせを考える仕事は、政治とも共通点があるかもしれません。
ないものねだりをせず、いま手の届く範囲内にある資源を生かして最高のまちをつくる。地方創生の要諦でもあるでしょう。
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