
タイトルの効果
タイトルをつけるのがうまい人は、その作品の核をつかむのがうまいかただと思います。うまくないかたは逆だと。検索狙いの長いタイトルづけがはやってますが、それに慣れてしまうと「自分の作品の核をつかむ」「自分の作品に核を持たせる」スキルが身につきにくくはなると思います。
— 青木健生 (@p_kobushi) November 3, 2020
なるほどと思った。あと、最近の長いタイトルは検索狙いの意図もあったのか。なるほど。
それはまあいいとして、タイトル、である。初心者のころ、俳句総合誌を参考にいろいろ作ったり真似たりしたんだけど、何に驚いたって、タイトルに一番驚いた。有名、高名だとされる俳句の方々のタイトルへのその無頓着ぶりにである。むしろ、そこに工夫をいれないのが「いい」という価値観でもないとあそこまで無頓着にはなれないだろうというくらい、タイトルは蔑ろにされていたと思う。そういう傾向を勝手に感じ取って、違うものを意識して当時は「暗躍製菓ドロップス」だの「頭痛薬定食」だのという連作を作ったが、これははっきりとズレていて、無頓着系とは反対の極のダメな例だろう。
そういう苦い経験を重ねてようやく最近いいと思えるものがつけられるようになってきたので、この辺でタイトルをつけるときに意識してることを少し書き残しておこうと思う。それにしても最近はこだわってる人多いよね。タイトル。読もうと思わせるタイトルが増えるのは楽しい。
先日、「表皮」という作品で結社の賞をいただいたのがサンプルとしてちょうどいいのでこの句群からタイトルが決まるまでをなるべく正確に思い出しながら書こうと思う。
「表皮」https://note.com/kasen17/n/n68b708150f28
てのひらに夏の月ほど脆き菓子
部屋狭き故に裸を撮り合ひぬ
夜更しの二人水中花を並べ
何句か作って並べると関係性と流れが出て来ることが多い。上の三句を並べた時に、若い人の同棲生活のシーンがいくつか思い浮かんだ。しかし同棲シーンばかりを句にすると単調になるので、同棲シーンを軸にその周辺や別の風景などを織り交ぜていくことになる。この辺は結構ガチャなので意識しつつも囚われすぎないように俳句をたくさんつくってその中から使えそうなものを選んでいる。
アルバイトして制服に夏の雨
金魚玉人を騙せし顔したる
水着アイドル花束のやうにされ
剃毛の刃のしりしりと風死せり
それで、最初の三句から少し同心円を広げてできたこれら四句を合わせてみた。理想としては連作をまとめている序盤の終わりくらいまでの流れからテーマを決めて、今度はテーマから浮かんだものを俳句にして連作として落とし込むイメージ。作品によって違うが、基本的にはテーマとの交流がある句が4~6割くらいあれば余白もちょうどいいかなと考えている。これより増えると、テーマに縛られ過ぎて、広がりがない連作になってしまう。
尚、この作品で言えば「部屋狭き故に裸を撮り合ひぬ」の求め合うも視線が表層を滑っていくだけにしかならない空虚さが気に入っていたのと、同心円を広げた先に「制服」「顔」「水着アイドル」「剃毛」といった語句がそろったことで、人間の表面、表層に関する連作というテーマが決まった。
同棲生活を描いているからといって「同棲」やそれに類する言葉をタイトルにしてしまうのは、作中の季語をタイトルにするのと似ていて、それが合うときもあると思うが、ちょっと自分からしたらもったいないと思う。なので描かれているもののさらに奥にテーマを見出し、そこからタイトルを発想する方がタイトルの効きが高いように思う。もちろん程度問題で、必ずしも毎回こうはならないが、少なくとも、句中の言葉からタイトルをとらなければいけないわけではない。もっと立体的な探し方があるということがわかってるだけでも十分だと思う。
今回、身体の「表面」「表層」を意識した句がほとんどを占めたのは普段の4~6割論からすると例外だが、「同棲」が隠れ蓑になるので、テーマとの接続は多いくらいがちょうどいいと判断したからだった。20句そろって、「表面」「表層」からより身体的な「表皮」に変えてそれをタイトルとした。さらに「表皮」に合わせて何句か差し替えて完成とした。
余談だが、「表皮」「同棲」からの発想で、ジェンダーの攪乱、打ち消し合う効果を連作にもたせようと工夫したが、そこを読み取ってもらえたことがとても嬉しかった。一方、もしかしたらそのあたりのギミックに凝り過ぎたことが本賞を逃した一因になっているかもしれないけれど。
そこを句単位と連作単位の仕掛けを使うことで、作中主体や同棲相手の性別等をかく乱しつつ、体の、それこそ表皮ぎりぎりまで書いてるのにわたしはかなりびっくりした、気がする。たぶん。
— yen@朗読動画公開中です (@golden_wheat) November 2, 2020
以前、プレーンテキストという考え方が示されたが、タイトルの工夫は、上手くいくほど俳句へのバイアスが強くなってしまう場合が多く、そのため、タイトルについては意識して無頓着でいるというのも一つの見識ではあるとは思う。しかし、そうやって付けられたタイトルにバイアスがないかというと、それもあり得ない話で、無頓着な分、作品の魅力を削ぐ方向に働くことが結構ある。
また、タイトルの話はテーマとも密接につながっていて、テーマを持たせること自体が、作者の性や年齢などのメタデータ(あるいは読者が俳句を読むために創作する偽メタデータ)や背景が俳句自体に入り込んでくることになる。そう考えると、現在はメタデータを断った読みが志向される時代なわけで、今後タイトルを廃した作品が増えるかもしれない。
そういうのに寂しさを感じないでもないのだが、それについては次回。