
俳句の錬金術師
こんにちは。今回は少し前にtwitter上で起きた炎環の先輩、mk4nさんとのそこそこシビアなやりとりの経緯説明と、mk4n発言批判、パロディ論について話そうと思います。
経緯、あるいはパロディは最大の禁忌か
【街研究句会のお知らせ】
— 街俳句会 (@machi_haikukai) May 25, 2019
日程:6/9(日)13時〜17時
場所:かながわ県民センター
会費:1200円(学生の方は500円)
句数:席題3句出し
今回は「鴇田智哉を作ってみよう」の演題で主宰の今井聖が勉強会を行います。
会員以外の参加も大歓迎。
ご連絡はこちらのアカウントまで(谷村)
事の発端は、「街俳句会」のツイートの「鴇田智哉を作ってみよう」という悪目立ちするキーワードに反応した私を含む数人が「鋼の錬金術師」の人体錬成要素を踏まえてネタ的なツイートを投稿したことによる。
そこで私は鴇田智哉の有名句「人参を並べておけば分かるなり」をもじって「人参を並べておけば錬成陣」という「鋼の錬金術師」内のキーワードを下五にいれた句を投じその流れに加わったのだが、それがmk4nさんのお怒りに触れたのだ。
mk4nさんは掲句に対して「これはなんでしょうか。」「リスペクトは?」「あ、そこにリスペクトがあればよいかと思いましたが、今のこの流れでは感じられなかったということです。」というリプライをし、これに対し私も「有名な俳句をパロディ的に使うのは、だめですか?」「リスペクトの感じられないパロディはだめですか?私は鴇田さんの句は好きだけど、いつも誰に対してもわかりやすいリスペクトをするわけではないです。」など少々間合いを測りながら返信した。そしてそこからいくつかパロディと引用に関する苦言や批判、やり取りやエアリプが発生した。
総じてmk4nさんの苦言は一つのツイートとしてなら首肯できるものもあるが、パロディに対してはどれも的外れであり、その点についてはしっかり反論しておく必要を感じた。決してこの文章で彼女を説得できるとは考えていないが、彼女の意見が力を持つと、作者読者双方に、俳句に触れることを必要以上に恐れる雰囲気ができてしまいかねない。私はそれを憂慮し、反論を世に問うことを決めた。
尚、彼女は「私そんなこといってましたっけ」(例2)的なことをしばしば言うが、言った、言わないではなく、「言ったこと(根拠)から当然に導かれること」で判断されるのは当然のことである(でなければ、ほのめかし放題になる)。もちろん批判者は根拠を上げる必要があり、そのためこの文章には多くのリンクがはってある。「自白しか証拠採用のできない刑事司法」がないように、「直接言ってないから意図してない」などまかり通るわけがないのだ。無論、反証があれば覆ることは言うまでもない。
理解、分解、再構築
さて、いよいよ本題である。mk4nさんの引用やパロディに対する見方をまとめると次の四つになる。
1.引用にはリスペクトが必要である
2.(パロディで)作られた句は元句を理解し、それ自体が読む価値のあるものでなければならない 注1
3.面白がるだけのものは公開する価値はないし、公開するならそれなりの考えがいる
4.パロディについて元の句と質が全く違うものは認められない
次に、パロディ及び引用の定義を載せておく。少々長くなるが、元々のtwitter上の議論では定義をあいまいなまま進めていたので、ここではっきり理解しておく必要がある。あと、定義の定まっているもの対して、「パロディの概念が違う」とかは通用しないです。それは不勉強なだけです。
尚、剽窃の定義も載せているのは、mk4nさんの怒りはむしろ剽窃に対して向けられるべきものだと思ったからだ。なお定義はすべて「パロディ、二重の声【日本の一九七〇年代前後左右】東京ステーションギャラリー」より引用した。
パロディ:特定のモデル化(模範化、様式化)された先行テクスト(プレテクスト)の外面的形式を反復しながら差異を強調することで批評する表現形式、またそれによって生じた制作物。見かけの反復による批評的機能転換。反復的再編成によるメタテクスト。屈折的反復。替え歌。通常、標的としてのプレテクストは価値的に上位にあるもの、権威、社会的・公的に認知された典型的概念などが選ばれる。パロディは、反復と差異の生成によってプロテクストの顕在的意味(デノテーション)を露出したまま潜在的意味(コノテーション)を追加し、単一の文法の中に混声的に二重のコード(理論体系)を共存させる。反復を介してプレテクストの機能する場は転移し、反復のゆえにパロディは必然的にジャンル内向的、自己言及的な批評となる。プレテクストの持つコードの単一性や直線性が歪められるため、多くの場合、上位価値ないし上位概念としてのプレテクストに対する負の効果(滑稽、諧謔、皮肉、転倒、嘲笑、解放、暴露、冒涜、懐疑、闘争、抵抗、更迭など)を伴うが、同時にパロディ主体が下位価値にあることを自ら明かすことにもなるため、中立の効果(戯れ、共感など)ないし正の効果(祝祭、称賛、敬意など)、あるいはパロディ主体にとっての負の効果(敗北など)をも少なからず含む。(中略)日本では部分的にパロディと重複する形式として本歌取り、滑稽本などがある。
引用:あるテクストの拠り所とするために先行テクスト(プレテクスト)を取り込むこと。引用主体テクストが全体のコード(理論体系)を担い、プレテクストはあくまでもその全体に対する部分を担う。プレテクストは引用主体テクストの単一コードの内に統合されるため、パロディのようにコードの二重化は生じない。著作権法では、公正な慣行に合致し、かつ、報道、批評、研究、その他の目的において正当な範囲内で、公表された著作物は自由に引用して利用することができる(第32条)
剽窃:先行テクスト(プレテクスト)をそのまま盗み取って自らのテクストとして公表すること。盗作。盗用。特に20世紀半ば、ポップ・アート登場以降の英米芸術において、マスメディアを背景とする戦略的な表現手法として用いられるようになった。
まずは「1.引用にはリスペクトが必要である」であるがこれは簡単。
引用もパロディもリスペクトを含むことは十分あり得るが、それらは引用やパロディ成立の要件ではないため、引用(パロディ含む)にリスペクトは不要である。これはmk4nさん自身も後にパロディはリスペクトがなくとも成り立つことを認めていると推察できるツイートをしているので議論の余地はないだろう。よって、否定される。cf:オマージュ
次に「2.(パロディで)作られた句は元句を理解し、それ自体が読む価値のあるものでなければならない 注1」である。リンク先からこの主張(錬成物)を分解していこう。
街の問題も「パロディ的」の問題も同じ部分があって、そもそもの俳句が読めているか、作られた句は読めるものか(読むに値するか)、誰に向けて書いたか、または書こうとしていたか、何故それを誰もが見られるインターネットで発表したのかなど掘り下げられる。そもそも「パロディ」の概念が違うのか。
— mk4n (@k4nm8) May 21, 2019
まずここで「プレテクストを理解できているか」「パロディ主体が読むに値するか」を掘り下げるべき重要項目として上げている。当然、「人参を並べておけば錬成陣」ついてはその価値を認めていない。
「鴇田智哉を作ってみよう」と、句を理解もしないで上五中七に同じ言葉を持ってくることは、多分同じ問題をはらんでいるんだよ。
— mk4n (@k4nm8) May 21, 2019
そして本件パロディと「鴇田智哉を作ってみよう」を同一視したうえで、別のツイートで街の企画を「失礼」と断じていた。
これによって、読む価値のないパロディは失礼にあたることが推論でき、そういったものを公表すべきではない(主張3)と考えるmk4nさんが、「読む価値のないパロディ」を認めるわけはないのだ。
しかし、そもそも私は「人参を並べておけば錬成陣」に俳句としての価値があるなんて全く思っていないのだ。パロディ自体がその定義からして、オリジナルの劣位であり、mk4nさんの主張が的外れだ(注2)とする第一の理由がこれである。
つまり元句と比較してパロディ句の価値を説くのは全くのナンセンスとしかいいようがない。よって主張2も否定されるべき意見である。
もっとも、パロディの定義に照らし合わせて解説すると、まず元句の「人参を並べておけばわかるなり」は上五中七の行為の意図が不明なまま、下五の「分かるなり」にかかることで一種日常の呪術とでもいうべき印象を想起させることに成功している。その点を鋼の錬金術師における「魔法陣」である「錬成陣」に紐づけ、主人公が市場で揃えられるものを利用して母親を蘇らせようとした「人体錬成」の経緯を踏まえ、同じく市場に並んでいる人参(人参自体が人間のメタファー)を用いて、パロディとして単一の文法の中に混声的に二重のコードを仕込んだのが「人参を並べておけば錬成陣」である。もっとも、パロディのもう一つの要素「反復的」の度合いが完璧ではない(下五でガラリと印象が変わる)ため、禁忌に触れ余計な批判を招いたのかもしれないが、それは「パロディには(プレテクストの価値観に基づいた)読む価値が必要」という主張とは何の関係もない話である。
三つ目に行こう。「3.面白がるだけのものは公開する価値はないし、公開するならそれなりの考えがいる」
私が最も強く否定すべき部分である。まず第一に、パロディとしての考えは前節で述べた通りである。「パロディ的」にではあるが考えもなしに「人参」を使ったわけではない。にもかかわらず、「それなりに考えることも必要」という。それではパロディ全般に対する理解と洞察が低いと言わざるを得ない。実際はそういうことではなくて、仲間の句を使って「ふざけるな」と言いたかっただけなのかもしれない。それならそうと言ってくれれば、「傷つけてごめんなさい」で済む話なのだ。論理の問題ではなくて感情の問題に限るなら私に反論はない。しかしmk4nさんは俳句表現全般の話として進めようとした。そしてその主張には看過できない明らかな誤りがある。
その最大のものが「面白がるだけなら仲間内でやれ(公開するな)」という部分である。この手の主張は過去にも見られる。
話は変わって、「社会詠が増えることを期待する」という人がいますが、それって面白いんですかね。社会詠=世の中が不穏というわけではないと思いますが、そういうことを期待しているの? もしやるとしても、そんなの俳句以外でやってよって思います。
— mk4n (@k4nm8) August 23, 2016
mk4nさんにとって、読む価値のないもの、面白がっているだけのもの、面白くないもの、総じて自分が認めることのできないものは、俳句の内側に入ってくるなという主張である。こんなの、「嫌なら日本から出ていけ」「愛国心がないなら日本から出ていけ」と宣うネトウヨのそれとどれほどの違いがあるのだろうか。炎環を代表する俳人が、不特定多数が目にするウェブ上で、このような排外的な希望を堂々と口にする。炎環は寒雷の流れを汲む結社であり、多様な意見のぶつかり合いこそ旨とすべきであるにもかかわらず、その元を絶とうとするツイートを平気でする。そのことについて「それなりに考える」べきなのはmk4nさんの方ではないか。
4.パロディについて元の句と質が全く違うものは認められない
は?なんで?である。そもそも本来の句の質に似せようとは思っていないし、それが目標ではないし(ただし、パロディ論的には反復性の度合いが足りなかったことは否定できない。またそれゆえ風刺的側面を獲得した※文末注1。もっとも、上五中七をそのまま引用することで不在の下五を匂わすことはできておりパロディが全く成り立っていないとまでは言えないと考える。)
作者はその一句を作るのにどれだけの道を行き来したのかとか思う。すでに俳句として句を享受する読者は、もしかしたら山を登る最短距離は分かるかもしれないけれど、作者と同じ道をのぼることは不可能で、さらに、もし同じ道をのぼったように見えても、同じ俳句にはならないということ。
— mk4n (@k4nm8) May 22, 2019
つまりそんなことを言われても、こちらはもともと同じ山を登ってるつもりなんかなくて、ていうか、そのときは山すら登っていなくて、遠くに見える有名な山を掌に載せる類の面白写真を撮っていただけなのに、いきなりフル装備の登山家が現れて、「お前らにはあの山を登った登山家と同じ景色が見れていない」「それで登ったとかぬかすな」みたいなこと言われても困るんですけど。登ってないですってば。まじで。それすらも許されないの?てか、炎環の2010年の新年会の余興は中七改変パロディ俳句トーナメントだったけど、中七だけ変えて、名句と同じ基準で評価されようなんてつもりでやってた人なんて一人もいないはずですよ。mk4nさんの理屈からすれば公開してないからセーフかもしれないけど「質が全く違うから「ない」」なんて言えないと思うんですよね。最初にも言ったように、主張4は剽窃目的の人に対する批判なら妥当ですが、パロディに対しては全くの的外れです。勘違いもいいとこです。私もひとたび山に入れば登山家みたいなものですから、気持ちはわかりますけど、山を眺めてる人のところまで下りて行って「登山を馬鹿にするな」みたいな説明しようとは思わないです。馬鹿になんかしてないですってば。
一は全、全は一
以上、五千字近くを費やして、最後は疲れて口調が戻ったけど、大体言いたいことは言えました。最後にこの問題を鴇田さん自身はどう考えているのか伺えるツイートがあって、それについて私はとても落胆したうえで、なんか分かっちゃったので、載せときますね。
たとえば他人の作った五七を借りる。これって道端の石を拾ってくるのと同じ。ただ、その石に対して、いつからここにあったのだろう、なぜここにあったのだろうと興味を抱く人もいれば、全くそういうことに興味を抱かない人もいる。それだけの話。
— tokiris (@tokiris7) May 29, 2019
鴇田さんの句を道端の石だなんてそもそも思ったことが無いんですよ。でも鴇田さんは、引用されたら「道端の石」だと思われたと思うわけでしょ。あるいは読者にはそう読まれていると。それでピンときて、佳世乃さんの反応も、ふざけて読まれること(自身あるいは仲間の句が軽んじられたと思うこと)に対する拒絶反応みたいなものだと思ったんです。
鴇田智哉の句に言語操作のパターンが見えることは、僕がだいぶ前に『凧と円柱』のレビューで書いた。鴇田に本当に作家性があるのなら、鴇田風の俳句を誰が作ろうと放っておけばいいはずだが、実はお仲間が鴇田の作家性を信じていないという衝撃。
— 南井三鷹 (@minaimitaka) May 24, 2019
こんな意見もありますが、むしろ鴇田さんの作家性を信じていないというよりも、鴇田さんも佳世乃さんも「読者」を信じてないんじゃないかなって思ったんですよね。もっというと、自分の主張に適う読者しか認めていない。それ以外には自分の句は石だと思われていると思っている。佳世乃さんの「他所でやってよ」は最も端的にそれが出たものだと思う。読者が信じられないから作者の論理で読者を殴りに来る。排除しようとする。まぁ今回の場合は私はパロディの作者ではありますが、佳世乃さんは「読み方」「理解」を問題にして排除を試みましたしね。もちろん「パロディを批判するな」と言いたいわけじゃないんですよ。パロディなんて、そもそも褒められたものではないんですよ。でも「信じられない読者」の排除を正当化するなら俺は何度だってそれを否定するし、心配しますよ。鋼の錬金術師でも言ってたじゃないですか、「一は全、全は一」って。結局俳句の世界も全部つながっているんじゃないでしょうか。
と思ったら、鴇田さんから
「道端の石」は〈つまらないもの〉の喩えではないです。道端の石に心ひかれてポケットに入れてしまったり、それを持ち帰ってずっと大切にすることだってあると思うし。どちらにせよ簡単に拾えるということ。あと「鴇田智哉を作ってみよう」には、個人的には参加したかった。予定が会わなかったけど。
— tokiris (@tokiris7) June 11, 2019
リプライが来て、石に関しては私の誤解でした。ごめんなさい!!!でもめっちゃ安心した!!良かった。「簡単に拾えること」が要点でした。該当部分を作り替えるとわけわかんなくなるので、該当部分をそのままにしたうえで、私の誤解だったことを載せます。元のツイートに対する反応としては、それほどズレた落胆ではなかったとは思いますし「まったく興味を抱かない人」認定されていた可能性はともかく、公式に「つまらないものの喩えではない」と否定があったことは大きいです。そこが一番のポイントだったので。実際、うちの子も道の石を拾ってきては大切にコレクションしてるし。あとは前のツイートとの整合性も一応あるし。ただこれが、例えば「LINEとか仲間内でやれば」というのは「面白がるだけのものを排除する意味で言ったのではない」とか言われても、全然反証になってないけど。
最後に、単純に作者としてあのように使われて心情を害したということなら、鴇田さんに会ったとききちんと謝りますね。前述の通りこればっかりは理屈の話ではないし、パロディが抱える問題の一つでもあります。
文末注1:
風刺:遠回しに批判すること。婉曲的批評。またそれによって生じた制作物。その制作物をカリカチュアとも呼ぶ。あるテクストを用いて風刺を示す場合にパロディに類似するが、パロデイの標的が反復する先行テクスト(プレテクスト)自体であるのに対し、風刺の標的はそのテクストの境界外に設定される「パロディ、二重の声【日本の一九七〇年代前後左右】東京ステーションギャラリー」
そのため、むしろ「鴇田智哉を作ってみよう」に対する風刺として「人参を並べておけば錬成陣」を位置づけるべきではないかと書いていて思いました。パロディについてはこの文書を書くまではちゃんと勉強していなかったので、書きながら分かってきた感じですね。
おしまい。